『いきている山』 ナン・シェパード

 

スコットランド、ケアンゴーム山群。この山々に、子どものころから親しみ、生涯、通い、愛した、という著者による、ネイチャー・ライティング作品だ。
その一文一文は、読んでいる間じゅう、気持ちを高揚させてくれた。ずっと楽しかった。
山を深く知り、愛する人の文章だ、というよりも、著者が山そのものではないか、と思えてくる。著者は、山について書いたのか、自分自身について書いたのか、どっちだろうと考えている。


たとえば、
「(山が)排他的であることは時に必要なのだ。これは階級や富に関する排他性ではない。孤独を感じることが出来るという人間の特質を守るための排他性のことだ」
などという文章を読むと、山が人格を持ったものに思えてくるし、それは著者自身の気持ちのありように思えてもくる。
あるいは、山を見つめることがそのまま、自分を見つめることにつながっているのだろうか。
「(湖の)深淵を見下ろしたあの最初の一瞥は私に衝撃を与え、私自身の力を高めたのだ。その力をもってすれば、恐怖すらもたぐい稀な高揚感となった。それは恐怖が恐怖であることをやめたのではなく、恐怖そのものが、極めて非個人的なものに、そして極めて鋭く感じられるものとなり、魂を委縮させるものではなく、大きく押し拡げてくれたのだ」


さまざまな山の表情について語る。問わず語りのように、自分の思いや感情をのせて語る。
山そのものから、植物、昆虫、鳥や動物、そして、人間について
排他的であることが望ましい、と言いながらも、山からひとの気配を消すことはできないということを確認し、山と人との関わりをありのままに了解する。道そのものも、岩や巨礫、著者が携行するコンパスや地図も人の存在を示している。
山に暮らす人々とのおおらかで温かい交流も、ある山の頂上で目にした飛行機の残骸(戦争の名残の)も、人の存在を示すものなのだ。


山に生きる人々は、山を支える骨なのだ、と著者はいう。
生活様式が変わっていき、新しい経済が彼ら(山に生きる人々)の暮らしの型をつくっていく。おそらく彼らも変化してゆくのだろう」
ひたひたと豊かさが満ちてくる。ゆるやかに変化を受け入れながら、自身の根っこは変化することなく存在しつづける。そこに思いを馳せつつ、満たされていく。