『我的日本(われてきにほん):台湾作家が旅した日本』 呉佩珍(編)

 

18名の台湾作家による、日本旅エッセイ集。
編者あとがきによれば、「台湾作家にとって〈日本〉は重要な創作テーマの一つであった」というが、18名のうち、今のところ日本語で作品を読めるのは、甘耀明、王聡威、呉明益だけみたいだ。


そろりとページを開くと、まずは甘耀明の飛騨国分寺での初詣のちょっとユーモラスな話。これは、書き下ろしなので、最初から日本の読者のために書かれたのかもしれない。台湾の猿の伝説を思い出しながら、飛騨の赤い顔の「さるぼぼ」に願い事を託すくだりが楽しい。


18のエッセイは、いろいろな方向から日本に触れる。
京都や金沢、東京の町々の決してガイドブックに載らないようなその場所のこと、そこにまつわる作家の思いなど。
東日本大震災や帰還困難地域に寄せる思いなど。
それから、おそらく日本に限らず、旅に出るという事(家族を置いて一人で、またはどうしても連れて行きたい家族がいる)に寄せる思いなど。


慮慧心『美女のように背を向けて、あなたと話す。あの冷たい日本語で』がおもしろかった。
日本語しか知らない者としては実感がないのだけれど、日本語で話している時、大切なのは、言葉になっていない部分だという。
「……日本語とは意識的な省略だったのだ」
たとえば、日本語での「笑い」のつぼは、外国人には(どんなに日本語が堪能でも)わかりにくいそうだ。
省略された日本語(話者にも聞き手にも省略しているという意識もなく)を共有できないと笑えないのだ、と。


そして、呉明益『金魚に命を乞う戦争』を読む。
先日読んだ『眠りの航路』(呉明益)の訳者あとがきで、このエッセイのことが紹介されていて、私はこれを目当てに、この本を手に取ったのだった。
これは『眠りの航路』の背景のようなエッセイだ。
戦時中の日本が作家を召集して戦争の宣伝報道を行わせたことに触れたくだりが心に残る。
「後日の戦争に対する態度と全く異なる作品を書いた」作家や詩人たち。
敗戦後、ある作家は『敗戦日記』に「やっと終わった」と書き、「戦争は人類の疾病だ。~世界は人類の再建に取りかからなければならぬ」と述べる。
しかし、また、戦時中に「金魚を拝むと爆弾に当たらない」という噂があったことも書いている。
これに対して、呉明益は言う。
「私は自分の国が戦争の罪の中心になっていることをそうした作家がどう考えたか、また自分自身が戦争の「罪」の一員であることをどう考えたか想像した」
読んでいて、ただ恥ずかしかった……私たちは忘れっぽいにもほどがある。
『眠りの航路』の「訳者あとがき」(倉本知明)の言葉
「植民地を忘却することで戦後再出発を果たした日本社会は、~こうした問いかけにどれほど誠実に向き合ってきたのだろうか?」
を、思い出している。