『地上で僕らはつかの間きらめく』 オーシャン・ヴォン

 

1990年、小さかった「僕」は、祖母や母たちとともにベトナムからアメリカに移住した。
短い断章の連なりで綴られたこの作品は、作者の自伝的長編である。
「母さんへ」と、母に宛てた手紙のようでもあるけれど、母さん、と呼びかけながら、本当に呼びかけているのは自分自身にではないか、とも思う。


自分の事を語ろうとすれば、祖母や母の人生を語ることになる。どのようにして彼女たちが日々壊されていったかを。
浮かび上がってくるベトナム戦争の破壊、同胞や米兵による暴力や蔑みや狂気は、小さな町でささやかな家庭を守ろうとする彼女たちをいつまでたっても離さなかったのだ。


「僕」は自分が男の子しか愛せないことを知る。
十代の頃に出会った恋人は、仔牛肉が嫌いだ。生まれた瞬間から、自分の身体にぴったりの箱に入れられて、食べること以外に身体を動かすこともままならずに育った仔牛に、彼は自分を投影する。


「僕」は、幼い頃から母に殴られた。物を投げつけられて時には血を流した。母は怪物だった。
祖母が幼い孫に聞かせる「お話」は自分が若かった頃のこと。どんな男たちに身体を売って生き抜いてきたかという話だ。


箇条書きにしてみれば、「僕」が育った家庭の内も外も、酷い思い出ばかりじゃないか、と思う。
だけど、そのように書かれてはいないのだ。
なぜ、こんな風に書けるのだろう。どこが違うのだろう。
生き抜いた人たちへの愛しみと敬意だろうか。そして、敷き詰められるように広がる広い許しと許されたい思いだろうか。
生き抜く方法を教えた人は誰もいなかった。彼らがあのように生きて、あのように壊れていくしかなかったのは(そしてそれでもなお生きようと闘ったのは)、やはり賞賛に値することではなかったか。
苦労もなく豊かに生きる人たちから失笑を買い、敬遠され、「ソーリー」が口癖になり……でも、彼らは生きることをあきらめたりはしなかったし、わが子を生かすために闘っていた。
怪物にしかなれなかった人は、もしほかのやり方を知っていたら、きっとほかのものになった。
ほかの物語を知っていたら、ほかの物語を語った。
最も暗く惨めな場面でさえも、浮かび上がってくるのは他のものだ。


「僕」は書く。
「僕たちは決して、暴力が生んだ果実じゃない。――むしろ美の果実は暴力にも耐えたのだ」