『少年が来る』 ハン・ガン

少年が来る (新しい韓国の文学)

少年が来る (新しい韓国の文学)


カンボジアでは二百万人以上も殺しました。我々にそれができない理由がありません」という言葉が、軍事政権に抗議して拡大していくデモに対峙する政権側の考えだった。
武装の市民に向かって放たれた火炎放射器。病院がまるごと焼かれた。
人道的理由から国際法上禁止されていた鉛弾が兵士たちに支給される。四十万人の非武装市民に向けての八十万発。
手を挙げて投降してきた少年たちは、一列に並んだまま、容赦なく銃弾を撃ち込まれた。
撲殺され、こときれたあともなお打たれ続けた。
遺体は軍靴に踏みにじられた。
生きのこった人たちに待っていた拷問の酷さが、人をただの肉と血と骨の塊に変えていった。


光州事件のあまりにも残忍な顛末が克明に描かれる。
けれども、
済州島で、関東と南京で、ボスニアで、全ての新大陸でそうしたように、遺伝子に刻み込まれたみたいに同一な残忍性で」
この言葉によって、この本が、特別な時、特別な所、特別な出来事についてだけ書かれたものではないのだと、思い知らされた。
人がいるかぎり、何処にでも起こる出来事でもあったのだ。


生きながらえながらあの日以前の自分に戻れなかった人びとは、夢も尊厳も、自分の名前さえもとりあげられたまま、町の片隅で忘れられていく。ひっそりと死んでいく人もいる。
なぜ……
なぜかは、人間が人間でなくなるまで、内側から破壊していく暴力の凄まじさを読んで、わかってきたはずなのに、やっぱり、あなたがなぜ、と思ってしまう。


「この小説は、悲劇的な出来事を声高に告発するものではない。この事件で命を落とした人々への鎮魂の物語である」とは、訳者あとがきによる。
そうなのだ。これだけの暴力にさらされながら、「怨み」「憎しみ」という言葉が、この小説のなかに一度だってあらわれただろうか。


足並みそろえて行進してくる軍隊には、個別の顔がない、表情もない。
自ら進んでそこに残った人たち、身体をよじって苦悶の表情のままに死んでいった人たちは、名前があった。家があり、兄弟があり、その瞬間まで繋いでいた手があった。
たとえば、愛しい母、亡くなった祖母の言葉を覚えていた。
くすぐったがりやで、足指相撲にはめっぽう弱かったとか……


君、僕、あなた、彼女、彼……章ごとの主人公を示す人称代名詞は変わる。ばらばらの代名詞で呼ばれる主人公たちが、ばらばらであるからこその統一感で結ばれている。すべて、1980年五月、あの場所で、死を覚悟しながら座っていた若者たちである。あるものは死者であり、あるものは生者であるけれど。
彼らの傍らには、いつだって、ひとりの少年がいた。言葉少なで、目立たなくて、どこにでもいそうな顔立ちの。特別の。彼は、ずっと後になっても、友人たちの記憶からこぼれ落ちることはなかった。どこにでもいそうで、特別の彼。


五章の「死なないで。死なないでください」
エピローグの「誰も私の弟をこれ以上冒涜できないように書いていただかなくてはなりません」
という言葉が心に残る。
これらの言葉は、誰かに向けて発された言葉であるのに、その言葉を発した当人自身に向けて呼びかけているように感じられて。
もしかしたら、亡くなった人から、生き延びたひとへの呼びかけであるようにも感じている。


わたしも、一緒に呼びかけてもいいだろうか。六つの章とエピローグとで出会った人たちに、心こめて、呼びかけてもいいだろうか。
「おい、戻っておいでよ。
おーい、私が名前を呼ぶから今すぐ戻っておいでよ」(三章)
「なんで暗いとこに行くの、あっちに行こうよ、お花が咲いてる方に」(六章)