『戦争と児童文学3 空爆と暴力と少年たち』 繁内理恵 (『みすず』2018.08月号より)

みすず 2018年 08 月号 [雑誌]

みすず 2018年 08 月号 [雑誌]


連載『戦争と児童文学3 空爆と暴力と少年たち』(繁内理恵)を読む。
副題:『ロバート・ウェストール 顔の見えない戦争のはじまり』
これは、「ロバート・ウェストールは、生涯を通じて戦争と深く関わる作品を描き続けた作家だ」という言葉から始まり、
デビュー作である『機関銃要塞の少年たち』を中心に、ウェストールの描く子どもたちの(そして大人たちの)戦争について、鋭く読み解いていく評論である。


「戦時下に空襲を受けた子どもを主人公にした作品、というと戦争の悲惨にうちひしがれるという図を想像しがちだが、ウェストールの目線は違う」
『かかし』を例にとって、「……『児童文学』という言葉に抱くメルヘンチックなイメージとは程遠く思春期の少年の性や家族に対する複雑な感情が荒れ狂う。大人にとって都合のいい子どもの姿など、彼の作品には無縁の存在なのだ」
これだけでウェストール作品を読みたくてたまらなくなるではないか。


『機関銃要塞の少年たち』の主人公チャスの持つ正義感の危うさについての読み解きは、繊細でスリリングだ。付箋を貼りながら読んでいると、
「戦争は、価値観を簡単に二分する。(中略)その間にある無数の「もしかしたら」や「あるいは」という仮定は切り捨てられる。ウェストールは、その「もしかしたら」「あるいは」を物語のなかで取り戻そうとしたのではないか」
という言葉に出会ってはっとする。
この作品のどこにどのような形でそれが描かれているか、どのように読むか、語り起こしていく繁内さんの筆力に、どきどきする。
そして、「価値観を簡単に二分する」単純さを、自分でも気がつかないうちに物語に求めがちになっていることにも気がついて、わたしは、ぞっとしたのだった。


この連載『戦争と児童文学』も三回目。
三回とも取りあげている作品は、直接に戦争を描いてはいない。
主人公は、町の中や疎開先の農場で暮らしている子どもたちである。ものすごく大雑把に言えば、みなよく似た境遇で戦争下を過ごしている、といえそうなのだ。(一回目は朽木祥ヒロシマの物語、二回目は『第八森の子どもたち』)
それなのに、そこにいる子どもたちのどこにより多く光を当てるかで、こんなにも違ったものが見えてくることにびっくりしている。戦争を扱った児童文学という同一のテーマであるのに、それぞれ、掘り下げれば掘り下げるほど、全く違った方向に、いろいろな物が現れることに驚いている。
三回めになるこの回で、自分自身のなかにある戦争を、自分でも気がつかずにいた戦争を、見せられたのだと思う。
自分が持っている正義感が、状況によって別のものに変質していくことの恐ろしさ。その恐ろしさに閉ざされたままにならないために、かすかに見える「もしかしたら」「あるいは」の存在は、かすかであっても、きっと大きい。
繁内さんの「もしかして」を頼りに、ウェストールを、もう一度、読んでみたい。