『戦争と児童文学12 歴史の暗闇に眠る魂への旅 三木卓「ほろびた国の旅」~戦争責任と子ども』 繁内理恵

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『みすず』2020年06月号より

連載『戦争と児童文学』第12回 「歴史の暗闇に眠る魂への旅 三木卓『ほろびた国の旅』~戦争責任と子ども」(繁内理恵)を読む。


今回とりあげられたのは、三木卓『ほろびた国の旅』
大学受験を失敗した三木卓青年が、1954年の当時から、子ども時代を過ごした1938年の満州へとタイムスリップする物語だ。
満鉄あじあ号(当時の子どもたちの憧れの特急だったそうだ)で、満州人、中国人、蒙古人、朝鮮人白系ロシア人、日本人の子どもたちと一緒に満州を旅する。


繁内理恵さんの評論を読み、(予習を兼ねて)先に読んだ『ほろびた国の旅』の物語を浚いながら、卓青年の旅の意味を深く読んでいく。著者とともに、あじあ号に乗って、見える景色や乗客について、その名前や意味を吟味しながら旅しているようなイメージだった。


卓の思い出のなかで「いい人」だった山形さんのこと。
「子どもたちの前や満州という、自分が大きな顔ができるところでは居心地よさげな山形さんは、加害の責任を軍部の暴走に押し付けて「いい人」のまま、何も考えずに戦争のことを忘れがちな、大勢の日本人の一面であるかもしれない」と書く。
そうだった。そして、そういう大人の擦り込みで、子ども時代の卓もまた、何の気もなく満州人・朝鮮人への差別の言葉を吐いていたのだ。青年になった卓は、そのことに気がついて、(子ども時代の)思い出の財産をみんな失ってしまった、と感じていたのだ、と思いだす。
けれども、それだけではなかった。山形さんの姿は「卓の忘却のなかに眠る自分自身の一面」という言葉に、はっとした。
懐かしい満州で、傍若無人にふるまう(いい人だったはずの)山形さんは、卓自身であり、この本を読むわたし自身でもあったのだ。


父と卓の会話の場面について。
「大人が、自分の生活のなかで政治や歴史に向き合うことを放棄し、自分の暮らしを守るためにと、おかしいことに、おかしいと声をあげなくなったとき」何が起こるのだろうか。
「子どもは『教育という場を媒介にして直接国家権力に結びついて』しまう」
父への詰問は、卓自身にも向けられているが、同時に、現代の大人、私自身にも向けられている。


在日朝鮮人へのあからさまな民族差別。子どもの貧困も、ホームレスの生きづらさも、自己責任と責めるばかり。この物語が刊行されてから五十年が経ったが、ここに書かれている問題はそのまま日本社会のなかに根強くあり続けている」と繁内さんは書く。
なぜなら……わたしたちが、いまだに、「おかしいことに、おかしいと声をあげ」ずにいるからではないだろうか。
物語の終盤の、卓と山形さんとでつくるたくさんの枯葉の土饅頭は、それでも口をつぐみ続けようとする大人たちを厳しく問い詰めているように感じる。
繁内さんは書く。
「日本という国家のあり方と深く結びついた狂気と罪、ひいては自分自身の罪の告発も含めての、血を吐くような鎮魂だ」


あじあ号の旅は「記憶の底に積み重なる死に向き合う旅であり、その死に繋がる自分と国家をめぐる記憶の旅でもある」
わたし自身も旅が必要だ。自分の記憶の遠いところまで。思いこんできたこと、忘れていたことを探し、目をそらしてきたこと、おじけて引いてきたこと、などなどに、なぜ、どうしてそうだったのか、問い直してみなくては、と思うのだ。


「子どもという、最も虐げられやすい存在、その弱さから社会を見るとき、もっともこの世界のありようが映し出される。私たちに生き方を問うてくる」と結ばれる。
この連載「戦争と児童文学」(なぜ子どもが主人公の児童文学なのか)の意味もそこにあるのだろうと思う。