児童文学のなかの戦争を、繁内理恵さんの案内で読む、この連載も6回目。
戦争、と一言で言っても、これほどに多様な面があることに改めて驚く。巻き込まれた子どもたちの姿も、巻き込まれかたも、どの物語もみんな違う。
回を追って読むごとに、戦争というものがますます巨大な化け物のように思えてくる。
この化け物、ほんとうに油断がならない。
戦争を安易に飼いならそうとしたら、、あっというまにこの化け物に、ばりばりと喰われてしまいそうだ。
『象使いティンの戦争』を辿る連載第六回、まさに化け物に食われ、飲み込まれていく人間の姿を、まざまざと見せつけられた思いだった。
『象使いティンの戦争』
ティンたちラーデ族はベトナムのジャングルに村を作って住む少数民族。ジャングルの歩き方に長けたゾウ使いの民族で、少年ティンは大きくなって象使いになることを夢見ていた。
ベトナム戦争のさなか、ラーデ族は中立を守っていたが、アメリカ軍の特殊部隊にジャングルの道案内などで協力した。
アメリカがベトナムから撤退したのち、北ベトナムの兵士たちは進軍を再開する。ティンたちの村にも…。
「親米、親カンボジア、少数民族、FULRO、そのすべての条件がそろったところで、目の前の少年を殺していい理由になるはずがない。しかし、兵士たちの目にはシウの姿は見えず、頭の中で貼り付けた、殺していい理由の書いてあるレッテルだけが見えている」
「この作品には、ティンたち少数民族が、差別感情も含めて非日常に危うい立場にあることが史実を踏まえて綿密に織り込まれている。だからこそ、民族と国家の事情にたやすく左右されてしまう人間の姿が切ないほどに浮かび上がる」
「毎日の暮らしの中で、考えたつもりで、もしくは深く考えずに選んだ選択肢のどこに分岐点があったのか。」
心に残る言葉である。
恐ろしいのは、人間が変わっていくこと。ジャングルで、地獄で。信頼できるものはひとつもないのだ(自分自身さえ)ということを否が応でも意識させられたこと。
読んでいて、先日読み終えた『ぼくの兄の場合』(ウーヴェ・ティム)の「普通の人」の話を思い出したが、しかし、ここで語られているのは、大人ではなく、子どもなのだ・・・
戦争の多様な姿を、子どもを通して見せられている。そのうちで、唯一変わらない、と言えるのは、いつの、どんな戦争でも、子どもが引き起こしたものは一つもない、ということ。
自分以外のものが始めた物語の中で、(おそらくは、最も弱く、もっとも責任がなく、何をおいても一番に守られなければならないはずの)子どもが、物語の主人公になってしまうということの残酷さ、理不尽さを噛み締めている。