『天皇の逝く国で(増補版)』 ノーマ・フィールド

 

昭和天皇は1988年9月19日、病に倒れ、翌1月7日に逝去した。
「この本は、ヒロヒトの死についての照察の試みである。そして十五年戦争(太平洋戦争)におけるあまたの死と、世界最大の経済成功のもとでの、生きながらの死とでも言うべき日常の質についても思いをめぐらしている。これはまた、忘却の気楽さと目もあやな消費の誘惑に抗っている人びと、現在を過去に照らして考える姿勢を貫いている人びとにたいして、敬意を捧げるための本でもある」


一体、どこから手をつけて、どのように書いたらいいのだろう。
貼った付箋(本を傷めると言われる悪癖をわたしはやめることができません)やメモ書きはたくさんある。
貼ったり書いたりが煩わしくて、ただひたすらに読んだページはさらにたくさんある。


戦後の日本は驚くべき復興を遂げた。かもしれない。でもやはり、どこかおかしい。何かが間違っている。
やっぱり、気になるのは戦争責任の所在だろうか。
それをうやむやにしてしまったために、あとからあとから誤魔化しに誤魔化しを重ねなければならなくなったように思う。
その先に、今があるのか……
いったいこの本、三十年前の出来事を書いているのだろうか。起きた事件や波及していくあれこれは、まるでついこの間、見聞きしたことのようだ。
軍歌をがなりながら通る「右翼」の街宣車は最近は見ないが、それに代わるものがあり、当たり前のことを当たり前に言おうとする人の声を塞ごうとしているではないか。
三十年前と同じ論調で。


三つの章に分けて。
まずは、沖縄の読谷村で、国体で日章旗を降ろして焼いた知花昌一さん。
取り上げられるべきことはたくさんあるのだけれど、一つあげるなら、
「そうだな、だれかにおまえは日本人かと訊かれたら、ぼくは琉球人だと言いたい」という知花さんの言葉だ。
日本人、と答えることをためらわされるような扱いを沖縄の人たちは、この国によってずっと受けてきたのだった。
続いて、裁判で、亡夫の神道神社への合祀に国家が関与したことの合法性を問うた中谷康子さん(と友人たち)
この章から、やはり、ひとつだけあげるなら、戦死した息子の母の言葉「国が息子を殺した。だが、自分(母)が息子を殺したのだ」
戦争がどういうものか知っていたら、靖国の欺瞞にひっかからなかったら……ほとんど不可抗力だっただろうに、それでも自分に責任があるのだ、とこの母は言う。今後の世代の母親たちは自分のように騙されて乗せられてはいけない、と。
そして、三章。長崎市長として(議会での質問に答えて)天皇の戦争責任はある、と答えた本島等さんが取り上げられる。
「彼は、自分があの戦争を生きた時点、部下に死ねと教育し、自分もまた永久に罪を負わなければならなくなった時点に、執拗に立ち帰っていく」
三つの章のどこからも、自分たちは犠牲者であると同時に(あるいはそれ以上に)加害者である、という悔いが、強く強く立ち上がってくる。


章題はそれぞれ「Ⅰ.沖縄 スーパーマーケット経営者」「Ⅱ.山口 ふつうの女」「Ⅲ.長崎 市長」だ。県名のあとに書かれた言葉が印象的だ。
三人の人たちは「時の人」となり、共感もされたが激しい攻撃にあい、仕事も家庭生活も難しくなり、命までも脅かされた。
でも、彼らは、特別な人ではなかったのだ、ということを、あの章題に書かれた、彼らの身分(?)をあらわす言葉が告げている。
それはおかしいでしょ、ということを普通に言うことが、どうしてこんなに難しくなっているのだろう。


著者は、アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、日本人にもアメリカ人にも疎外を感じながら、日本で育った。
自身の生い立ちや周囲の人たちのことを交えながら、この本で取り上げられてきた人たちの来し方や周辺についても書く。
「日常生活の詳細しかある意味では信用できない、またそれに非常な愛着を感じる性分ゆえ、かもしれない」
との言葉どおり、取り上げられた人たちの生活者としての姿が印象的だ。
だけど、この普通の人たちの依って立つ基盤の大きさ(あるいは、容易に言葉にできない過酷さ)に圧倒されてしまう。