『星条旗の聞こえない部屋』 リービ英雄

 

 

1950年代、ベン・アイザックは、アメリカ外交官の息子としてアジア各地で幼児期から少年期を過ごす。その後、離婚した母とともに、はじめてアメリカに「帰った」
アメリカの高校を卒業した17歳のときに、中国人女性と家庭を築いている父の住む日本の領事館にやってきたが、彼は徐々に日本語に惹かれ、もっと学びたいと思うようになる。
やがて、ベンは東京の街へ出ていく。それから家出して「しんじゅく」へ。
「オキナワー、カエセー」「アンポ―、フンサイ」の声が響き渡る町である。「ヤンキー、ゴ―ホーム」の声も。
ベンは作者の分身であるようだ。


昭和の半ば。薄白い顔と金色の髪は目立つ。ベンは人びとの視線を集めながら歩く。
「好奇心と、恨みと、いわれのない崇拝と、納得しきれない侮蔑」の視線である。
「外人」という呼称、ベン一人に対して「あなたたち」という呼びかけ、そして、日本語で問いかければ内容など聞きもせず「お上手ですね」という言葉で会話は終わる。
読みながら感じる私の恥ずかしさや悔しさ。いつのまにか、「あなたたち」に対する「わたしたち」(私、ではなくて)になっていたのかもしれない。


巻末の富岡幸一郎さんの「解説」に、作者リーピ英雄さんのエッセイの一部が引用されている。
「日本人としてうまれた人たちから、日本語は「知っているのか、知らないのか」、「話せるのか、話せないのか」、「書けるのか、書けないのか」だけではなく、深層においては「所有しているのか、所有していないのか」の問題を絶えず突きつけられてきたような気がする」
ああ、そうか、この本に収められた三つの物語の中で、ベンがこの町で味わういいようのない違和感、不快感。その源には、所有という意識があったのか、と気がつく。
それは、物語のなかで、ベンの父がベンに言った言葉を思い出させる。
「お前がやつらのことばをいくら喋れるようになったとしても(中略)完璧な日本語で『天皇陛下万歳』と叫んでセップクしたとしても、お前はやつらのひとりにはなれない」
父の言葉は、所有する・しないの話と一緒なのだと思う。
先に読んだ温又柔さんの『「国語」から旅立って』の中の言葉「日本語はわたしたちのものである」という言葉が蘇ってきた。「わたしたちのもの」の意味は、狭い所有を越えて、とっても深くて大きかった。

 
ベンの父は日本語を軽蔑していた。
理の世界をあらわす漢字の中国語に比べて、漢字にひらがなが挟まった日本語は、怪しい、女々しい、と感じたようだった。
その日本語にベンがのめり込んでいくことは、父との決別、自立も意味したのだろう。
タイトルの『星条旗が聞こえない……』は、星条旗のはためく音が聞こえない、という意味。幼い頃に暮らしたある国の領事館で、いつもベンがきいていた音だ。揃った両親の下で。


頑固な所有者たちはよそものを異物のように(よくて憐れみ)受け入れようとはしないけれど、若いベンの心は柔らかい。

「わたしたち」「あなたたち」の人たちとは別の眼差しもあることに気がついている。
そのことを、ちょっとだけ喜んでいる。