1945年8月6日に広島市に原爆――ウラン爆弾、ついで、9日、長崎市にプルトニウム爆弾が投下された。
「広島と長崎では原爆による致命傷や急性放射線症で合計二十万人以上の男性、女性、そして子供が原爆投下直後とその五ヵ月間に亡くなっている。続く数年間、さらに何万人もの人々がけがや放射線による病気を患った」
長崎市で原爆を直接体に受けた五人の人びと(後に語り部になった)を中心に数十人の人びとから体験談を聞いていく。
声の数だけの全く違う、激しい苦痛の連鎖に出会う。その場所でよく生きていた、生死の境目をよく生き延びた……そしてやっと外に出られるようになったときに追い打ちをかけるように襲い掛かる新しい苦痛は、身体にも、心にも注がれたのだ。
著者は、長崎の被爆者を探し、声を聞きながら、原爆を落としたアメリカの嘘や欺瞞を、ひとつひとつ掘り起こしていく。
とりわけ自国民に対しての隠蔽、矮小化、正当化が、印象的だった。
アメリカ人の著者の曇りない眼差しに圧倒される。
ことに心に残った件。
1990年代、スミソニアン博物館が、広島に初めて原爆を投下した「エノラ・ゲイ」を歴史的資料として展示することになった時、「被爆者の体験や遺品など広島と長崎の被爆に関する情報」を同時に展示しようとした。しかし、主に退役軍人たちによる全国的な激しい抗議運動に負けて、被爆側の情報展示を断念するのだ。
「……原爆がアメリカ人百万人の命を救ったという陸軍長官スティムソンの主張を称賛するよう退役軍人たちが博物館に要求したとき、この主張を覆す証拠文書があるにもかかわらず、博物館がこの主張を黙認するかのような態度を示したことに歴史家たちはもっとも深刻な懸念を抱いた」
……もっとも深刻な懸念。これは、他人事ではないのでは。
と思っていると、続けて、ほぼ同じ時期「皮肉なことに、日本でも……」と続く。
「それまで覆い隠されていた中国ほかアジア諸国を侵略する際に日本兵が行った惨殺や強姦、戦中を通じての残虐行為」があきらかになってきていた時だ。
1996年、長崎原爆資料館は、南京虐殺、日本軍による生物兵器の人体実験、従軍慰安婦に関する資料、写真を、新たに展示予定だったが、「このような展示企画に激怒した保守的な国粋主義者たち」の抗議や脅迫に屈し、展示予定から削除した、という。
あちらでもこちらでも起こっている「深刻な懸念」事項は、懸念のままで終わらせたいが……。
アメリカだろうが、日本だろうが、ほかのどの国だろうが、それからいつの時代だろうが(とりわけ今、ここ)、ことに自国の同胞たちに目隠しをして、不正義の協賛者にしたてあげようとする団体がいるのだということを心に留めておきたい。
強い流れに逆らえなくて悔しくも流されたことの目撃者になってしまったなら、いつ、どうやってそうなったか、ちゃんと覚えておかないと、と思う。
長崎の語り部たちは高齢で、身体の不調をおして、なお求められる限りに語ってくれている。
思い出すのも苦しい人生をあとの時代のものたちにわけてくれている。もう二度と、の思いとともに。
そのことへの答えかたを見つけなければ、と思う。