『深夜特急5-トルコ・ギリシャ・地中海』 沢木耕太郎

 

 

旅は続く。
イランからトルコへ、トルコからギリシャへ、ギリシャからイタリアに向かうところまで。
トルコの第一日目に雪が舞う。春に東京を出発して、とうとう冬になっていたか。


イスタンブールではブルー・モスク、アテネではパルテノン神殿が美しい。
トルコまでの各地のチャイ、ギリシアのどろっとしたコーヒー……
興味深い話ではあるが、そこじゃない。


「毎日が祭りのようだったあの香港の日々」から長い時間がたっている。
「旅は人生に似ている」と、著者は考えている。
「私の旅はたぶん青年期を終えつつある」
「何を経験しても新鮮で、どんな些細なことでも心を震わせていた時期はすでに終わっていたのだ。そのかわりに、辿ってきた土地の記憶だけが鮮明になってくる」
旅が、変わってきている……
「旅の青年期」の頃の話は読んでいても楽しかった。どれもこれも新鮮だった。この六冊の紀行文(まだ一冊残っているが)の花は、まさに「旅の青年期」=「祭り」の、前半三巻までにあるのではないか、と思う。
そして今。祭りの賑わいは落ち着いて、その分、内省的な言葉が増えている。


たとえば、パルテノン神殿で。
パルテノン神殿はどの角度から見ても間違いなく美しかったが、その姿は、信仰の地として生きるでもなく、廃墟として徹底的に死に切るわけでもなく、ただ観光地として無様に生き永らえていることを恥じているようでもあった」
この言葉は、この本の最後のほうの(若い旅人たちが往来するシルクロードについて語る)このくだりに繋がっているように思う。
「滅びるものは滅びるにまかせておけばいい。現代にシルクロードを蘇らせ、息づかせるのは、学者や成熟した大人ではなく、ただ道を道として歩く、歴史にも風土にも知識のない彼らなのかもしれません」
滅びかけたものたち、現代から零れ落ちかけたものたちに、若者たちは期せずして、新しい息を吹き込もうとしている。それもきっといいと思う。


旅の青年期を終えつつある、という著者だけれど、そう思って読んでいると、ハイライト的に蘇る「祭り」の時もあり、それが心に残る。
さて、残すは最後の一巻。どんな旅の終わりを迎えるのか。