『(新編)宮沢賢治詩集』 宮沢賢治

 

 

雨ニモマケズ』くらいしか知らなかったから、宮澤賢治の詩といって思い浮かべるのは、土の匂いとストイックな心とだ。
いま、詩集一冊読みながら、その多様さ、豊かさに驚いている。
まずは、童話にも通じるような透明感のある風景、鉱石や天文、神話にまつわるファンタジクな言葉たちが、心に残る。
詩の中を流れる水の音、鉱石の明るい硬さ、芳しい土の匂い、馬がしっぽを一振りした時に起きる風。などを感じながら読む。


だけど、この美しい詩集の底に流れているものは本当は重く苦いものだろう。妹の死、旱魃、自身の病などによるものだ。
直接うたった詩もあるけれど、そうではない詩の、たぶん、歌われた光景の後ろにあるのはそういうものなのだろう、と想像している。

「きょうのうちに
 とおくへいってしまうわたくしのいもうとよ
 みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ」(永訣の朝)

「死ぬといういまごろになって
 わたくしをいっしょうあかるくするために
 こんなさっぱりとした雪のひとわんを
 おまえはわたくしにたのんだのだ」(永訣の朝)

「とうとう稲は起きた
 まったくのいきもの
 まったくの精巧な機械……」(和風は河谷いっぱいに吹く)

「あなたのほうからみたらずいぶんさんたんたるけしきでしょうが
 わたくしから見えるのは
 やっぱりきれいな青ぞらと
 すきとおった風ばかりです」(眼にて云う)


重苦しいはずなのに、なぜこんなにも静かに澄んで美しいのか。
連想するのは水の流れ。森の樹のなかを流れる澄んだ水、空の銀河(にも流れているはず)の輝く水だ。静かな所で、流れていく水……
それは、どうすることもできない、苦い別れを耐えながら生きてきたひとが感じる静謐さ、透明感からの連想だろうか。


詩のなかに、皮肉や風刺はひとつもなかった。冷笑もなかった。
どの言葉も、相手の目をみて、まっすぐに発されているような気がする。読み手として恥ずかしくなるほどだ。朴訥、という言葉が似合うような。
だからこちらもただ朴訥に、ひたすらに読む。言葉をまっすぐ受け取ろうと、精一杯の心をこめる。


宮沢賢治の詩には、きっとたくさんの深い評論があるはずで、大切に深く読み、愛してきた人たちもたくさんいるはずで、私なんかが、こんなこと書いちゃっていいのかな、と気おくれしてしまうのだけれど、これが、この詩集を初めて読んだ感想です。