『それ自身のインクで書かれた街』 スチュアート・ダイベック

 

『シカゴ育ち』など、都会の下町を舞台にしたスチュアート・ダイベックの短編集が好きで、詩集も読んでみた。
作者の自伝のようでもあり、街自体の伝記のようでもあり、詩を読んでいるはずなのに、小説のようでもあり、そうだそうだ、これまで読んだ短編小説がむしろ、小説というより詩だったではないか、と思ったりした。


淫らな声、腐ったゴミの匂い、騒音、暴力と血の味、酔っ払いの吐く息、それ等がごっちゃに混ざった、薄暗くて汚い裏町が、この詩集のきっと主役だ。
「ゴミ捨て場の岸で夜釣りをしている都会の少年たち」に教えなければならないのは、
「鰓(えら)というものは、空気中で溺れながら 決して癒えぬ傷のようにぱっくり開く」のだということ。
それから、「闇の中からおびき出したものを どうやって殺し、適切にはらわたを抜けばいいか」ということ。
それは魚の話じゃないよね。そんな町なのだ。


「川が水洗便所のごとく 魂たちを霊界へ
 流し去り 地下鉄と下水道の四つ辻では
 明日のニュースが叫ばれる」
そんな町なのだ。


「僕らは知っていた、光のうしろには
 説明しようもない畏敬の念によって変容させられた
 別の街路があることを」
そんな町でもあった。


これらの詩から私が受け取るイメージは、なにか聖なる(といっていいほどの)宝を芯に抱えた透明な夜の空気だ。
淀んでいるというしかない裏町の空気の清々しさよ……こんな風に思うなんて、作者は、読者の心にいったいどんな魔法をかけてくれたのだろう。


「夏の熱い芳香から 排水管の涼しい腐った匂いに降りてきていた、ピーチクいちゃつくクロウタドリの声」
が、山の清澄な空気の中でうたう小鳥たちの声と同じくらいに心地良いと感じるのはなぜ。


シカゴは風の町。街路から街路をまわる風が「夜には 質屋のウィンドウに 風鈴のように吊るされたサキソフォンたちを さざめかせ」
「目を閉じて くるくる舞う葉の渦に足を踏み入れ」る心地にさせる。


たぶん、作者の案内がなければ、この町を心地よいなんて感じることはなかっただろう。この町が好きというよりも、清濁まとめてこの町への作者の愛が好きなのだ。


訳者・柴田元幸さんのあとがき「京浜工業地帯のスチュアート・ダイベック」がとてもよかった。柴田さんが少年だった日の京浜工業地帯の空き地の思い出が、この詩集とおなじくらい好きになった。