『スターバト・マーテル』 ティティアーノ・スカルバ

 

孤児を養育するヴェネチアピエタ養育院が舞台である。
赤毛の司祭ことヴィヴァルディが、前職からひきついで、作曲家兼指揮者として養育院の少女たちの音楽教育に当たった、18世紀初頭。


ヴィヴァルディの指揮で、少女たちの楽団が初めて『四季』を演奏する場面、素晴らしかった。文字を読むことで体感する音楽だった。聴衆(とともに読者も)の上に、「猛り狂う音の欄干から、重たい雹がどんどん落ちてきた」(夏の雹)そして「……頭上に音楽が投げつけられ、人が一年の間に生きるものすべてを聞いた」
私は本の外側から、文字で書かれた音楽を目で受けとり、からだ全体で聞いたのだと思う。不思議な音楽鑑賞だった。


作者は、ヴィヴァルディとその弟子の少女たちへのオマージュとして、この物語を書いたそうだ。
とはいえ、このオマージュ。敬意ととるには、相当に捻くれている……


司祭である男は、弟子の才能に嫉妬し、恋慕し、苦しむ。弱さ脆さ、狡さを見せつける。
才能の非凡さと性格の弱さとのアンバランスが際立った印象だ。


語り手は、赤ん坊の頃に養育院に引き取られたチェチリアという16歳の少女。この物語は、チェリチリアの手記で、会ったことのない母に宛てた手紙の形をとっている。
孤独で、痛ましいくらいに自省的な少女である。
書かれている思いは、ときどき真逆の方向に向かうが、どちらも真実だ。
母への思慕であると同時に、恨み言(求めながらの拒絶)。
悪から徹底的に守られてはいるが、そのために、悪の誘惑に屈しやすくしてしまう養育院の生活。
音楽に身を任せる喜びと、喜びを感じることの罪悪感。
そして、妄想が混ざる曖昧な書き方に、あのとき本当は何があったの、と尋ねたくなる。


弱者たちは「守られる」べきと思う。守られることは安心、と思う。
でも少女たちを見ていると。彼女たちが守られていることが苦痛になる。
守られることから、解放してやりたい、と思えてくる。
チェチリアの手紙のなかに「死」が親しい友となって何度も登場するのが印象的だ。守られている少女が、守りを拒絶するために、死と手を結んでいる、と思うのは辛い。


せめて、養育院で出会った音楽が(その後、たとえ演奏する機会がなくなっても)、生涯よき友となって支えてくれたら、と願っている。