『失われた手稿譜(ヴィヴァルディをめぐる物語)』 フェデリーコ・マリア・サルデッリ


1740年、アントニオ・ヴィヴァルディが多額の借金を残して死んだ。
債権者は、彼の手稿譜を差し押さえようとするが、彼の邸宅のどこにもみつけることはできなかった。
(持ちだした者と、読者だけが、それらがどうなったか知っている)
消えた手稿譜が世に現れたのは1922年。ファシスト運動たけなわのイタリア。ムッソリーニが頭をもたげてきたころである。
手稿譜をめぐる物語は、二つの年代(1740年と1922年)を起点にして、それぞれ流れ始め、やがて合わさって大きな流れとなる。
(それにしても、この目眩く物語がほとんど史実であり、主な登場人物もまた実在していたというのだから、驚いてしまう)


手稿譜は、人の手から手へと渡っていく。
とても覚えきれない大勢の人名は、巻頭の「主な登場人物」の一覧で確認しながら読んだ。
手稿譜は、その値打ちにより、長い時を生き続け、人の欲に翻弄され、数奇な運命を旅した。
手稿譜は語らない。
いいや、聞く力ある者なら、その身内に収められた音色を聞くことができる。


手稿譜を手にした多くの人間のなかには、そんな美声などどうでもよいと思う者、ただその値打ちを金に換算することしか考えない者も…多くいる。
その声を聞けないまま、その姿の美しさに畏れ入る者もいる。
美しい音声を聞いたつもりでいるのに、その声を聞こえるままに聞くことのできない者もいる。
関わった人びとは、それぞれの立ち場に立ち、愚劣な者は愚劣なりに、聡明な者は聡明なりに、純粋な者は純粋なりに、横柄な者は横柄なりに、力を尽くして関わってきた。


読みながら感じていたのは、手稿譜にもし心があったなら、もし口がきけたなら、自分の運命をなんと語るだろう、ということだった。
このような旅をし続けなければならない彼(彼女)が哀れだった。
そして、ただその声を聞きたい、と思った。ページを開いたときに、目に入るものが、美しい音楽に変わる瞬間を味わってみたい。そういう博識と感性があったらなあ。


消えていった英雄(二人。さらに二人、いや、むしろ四人。〜「出典に関する注記」による)に思いを馳せる。
その価値も知らないまま眠らされていた宝物が、貪欲な者たちによって貪り食いつくされる前に救い上げようとした英雄たちのことだ。
熱意と苦心と、その喜びに満ちた日々の美しさよ。


ファシズムの時代に入っていくのだ。
ごく普通の人がごく普通に、何千年も前からあたりまえにこうやって讃えてきたのですよという顔をして、熱狂的にファシズムへの快哉を叫んでいる時代なのだ。
昨日まで隣人であり、敬愛する師であった人たちが、そういう普通の人たちによって、日常を追われていく。


けれども、この時代のいわれなき迫害は、思いもかけないところにも及んでいることを物語は描きだしてもいるのだ。
やっとみいだされた宝物は、(丁重にもてなされながら)目に見えないところで(迫害者自身も気がついていないというのに)酷い仕打ちを受けているかもしれなかった。
(私たちはそのようににして、何をうしないつづけているのだろう。)
手稿譜、(心あるならば)いま安息しているのだろうか。