『希望の図書館』リサ・クライン・ランサム

 

希望の図書館 (ポプラせかいの文学)

希望の図書館 (ポプラせかいの文学)

 

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ラングストン少年は、母さんが亡くなったあと、父さんといっしょにアラバマからシカゴに引っ越してきた。
終戦まもない1946年のことだ。そのころ、大勢の黒人たちが南部から北部へと移り住み、「黒人の大移住」と言われたそうだ。


ラングストンは、転校後、クラスの鼻つまみ者に「南部のいなか者」と目をつけられて、友だちはひとりもできない。でも、父さんには言えない。
母の死、という共通の深い悲しみに沈みながらも、それぞれ自分の胸に留め、黙り込み、共有し合うことができない、なんともぎこちない父子だった。
ラングストンは思い出す。朗らかで優しかった大切な母さんのこと。かわいがってくれたおばあちゃんや一緒に遊んだたくさんのともだちのこと。それらすべてが結びついた故郷アラバマの風景のすべてが恋しくて仕方がない。


あるとき、いじめっ子から逃げたラングストンは、図書館にたどり着く。
図書館の事は知っていた。どんな本でも借りられる、と昔、母さんが言っていた。だけど、アラバマでは黒人は図書館に入れてもらえなかった。
シカゴの図書館は違うのだ。シカゴ在住のすべての人に開かれた図書館だった。
だから……一事が万事。ラングストンの父が(生前の母が願ったとおり)シカゴに引っ越してきたのは、そして、「黒人の大移住」が起こったのもそういうわけだったのだ。
ラングストンは生まれ育ったアラバマを懐かしむが、それは彼がまだ小さくて、親族に守られていて、黒人であるために被らなければならない理不尽を身をもって体験していないからでもあるのだろう。


シカゴ公共図書館は、ラングストンの居場所になった。
居場所「〈家〉とよべる場所」があるということは、そこに留まることもできるし、そこから外へと出ていくことも、戻ってくることも自由にできる、ということなのだ、とつくづく思う。少ししんどい場所にいくことにも、しんどい用をすますことにも、帰る場所があれば、きっと足を踏み出す勇気がわいてくる。
それは、始まりの場所なのだ。


きっかけは、たまたま入った図書館で、自分と同じ名前の詩人の本に出会ったことだ。
開いたページの詩句に出会ったとき、ラングストンは「まるで自分の心の中の言葉を読んでいるみたいだった」と感じた。
詩人ラングストン・ヒューズ。一世を風靡した黒人ハーレム・ルネサンスの指導者と呼ばれた詩人だ。
いくつも引用された詩句を読むうちに、わたしも、ラングストン・ヒューズの詩集が読みたくなってきた。自伝も読みたくなってきた。
だけど……きっとラングストンが読んだようにはわたしには読めないのだ。彼が詩を通してみている故郷は彼だけのもの、詩とともに旅する気持ちは彼だけのもの。
もやもやとしてとらえどころのない思いや、大切なのに消えていきそうな思いを、詩は、しっかりと彼につなぎとめる。さらに鮮明に見えてくる、その先の風景は、はるかな遠い旅に彼をいざなっているようにも思え、どきどきした。
ラングストン・ヒューズの詩集を読んでみたい、と思う今のわたしは、わたしではなくて、(私が読者として共有・憑依している)ラングストン少年の思いそのものなのだ。
こういう、本(詩人)との出会いかたができるって、なんて幸せなんだろう、としみじみと思う。
図書館が当たり前にあって、だれにとっても開かれていて、ずっと希望であり続けますように。