『長い一日』 滝口悠生

 

作家夫妻を中心にして、近所の人、友人たちの、ほとんどとりとめのない思いをゆるやかに繋いで、ある一日を描き出している。一日は、過去や未来と混ざりあって、境界がぼんやりしている。登場する人たちも、(時々誰かの想像なども入って)視点が次々に変化して、混ざりあって、誰の話をしているのかわからなくなってくる。
こうして書いておかなければいつのまにか消えてしまいそうな、その時々のそれぞれの思いも、混ざり合っていく。内へ外へと、伸びていく感じが心地よいと思う。


作家夫妻は、八年間暮らした家を離れ、引っ越していこうとしている。家を移るに際しての夫妻それぞれの思いを読みながら、家って何だったのだろう、と思う。
自分たちの住まい方はもちろんだけれど、隣人たちとの付き合いや、出先と家の間の道々の風景や音、通いなれたスーパーの安心の棚の配置に至るまで全部ひっくるめて、家なのかもしれない。
出会ったりすれ違ったり、寂しい思いをしたり、嬉しかったり、そういう思いも、家なのだろう。
家もまた、境界を曖昧にしながら、広がっていく。
愛着。と「夫」はいう。
「愛着を語ることの本質的な愛おしさは、その愛着を失ってからしか語りえない本質的な愚かさかもしれない」
と、まだ馴染んでいない新しい「家」で。


「夫」の友人の窓目くんが好きだ。鷹揚かと思えば偏屈で、しょうもなくマイペースで、哀しいようなおかしさがある。それゆえの愛おしさも。彼はどこにいるのだろう。彼の存在も曖昧な感じになってくる。もう一人の作家(夫)のようにも思えるし、私自身の中にもいそうな気がする。


この本を読みながら、わたしが思い出しているのは、大好きな、ケネス・グレアムの『たのしい川べ』だ。
川辺の小さな動物たち、川ネズミやモグラヒキガエルたちの暮しが書かれた児童書だけれど、動物たちの、わが家への愛着の物語ともいえるのではないだろうか。小さな動物たちの家を思う気持ちと、『長い一日』の夫妻の家を思う気持ちが重なってくる。
そして、『たのしい川べ』のトリックスターヒキガエルの冒険を思いながら、窓目くんの酒から始まる一日も、冒険だったな、と思っている。


「それでも今日は今日」と誰かがうたっている。
今日は続いていく。明日や昨日と境界を越えて混ざりながら。