『北は山、南は湖、西は道、東は川』 クラスナホルカイ・ㇻ―スロー

 

 

京阪電車を降りて、京都の小路を右へ左へと進み、丘の上の寺に至る。
詳細に描写される寺の佇まいに、なんという寺だろうと首をひねるが、架空の寺なのだろう。
この寺に安置されている仏像も、では架空の像なのだろうか。せめて写真なりと見てみたいものだと思っていたのだけれど。
「この世のものとは思われない哀しみに満ちた高貴な眼ざし」のお顔は横にそむけられている。僧栄観の見事な説法に心動かされて振り向いた姿と説明されてきたが、本当は違うという。背けたお顔が語るのは救いがたい悪行の歴史なのだ。


寺は深いところに奥庭を隠している。八本のヒノキと苔だけの本当に小さな庭をわざわざ見に来る人は少ない。
だけど、八本のヒノキはそれぞれ誕生の物語をもち、苔は長い年月降り積もる菌類や細菌によって自然の仕上げが施されている。
土中には、さまざまな鉱物が集まる。


日本の古寺の折り目正しい清潔感が心地良い、と思っていると、その裏表のように(あるいは障子の向こうに、壁の隅に)とんでもない汚濁や混乱、残酷さを隠していたりもして、どきっとする。
これはいったいなんなのだろう。
顔をそむけた仏さまの姿が蘇ってくる。


物語に人の姿はないが、ただひとり、寺の奥庭を目指して、具合の悪いからだを励まして歩いてくるのが、源氏の孫君。現世と遠い昔とが、混ざり合ったような不思議な空間を歩いているようだ。
瀕死の犬や狐もこの庭に向かう。彼らは目指す場所に辿り着いたことに気がついているのだろうか。


この庭をみつけたい、辿り着きたい、という人や動物がわずかにいるのだ。
だけど、見つけたいと願っていたものに、旅の果てにやっと出会えたとしても、出会えたことにも気がつかないとしたら、それをどうしたらいいのだろうか。
一瞬の逢瀬。「まさしくただそれだけのために、最初の胞子は上空から新緑の八本のヒノキの間に落下したのだった。」
こういう言葉を読むと、なんだかしんとした気持ちになる。
人なり動物なりが、この場所に辿り着いたことに気がつくかどうかなど、きっと問題ではないのだ。
この場所の側にこそ意味があるのかもしれない。そのために長い長い年月、準備をしてきたこの庭が、彼らを一瞬迎え入れることができた、ということに。


ハンガリーの作家は、わたしを京都に連れていってくれただけではなく、もっと深い奥庭まで連れて行ってくれた。