『ネイティヴ・サン ーアメリカの息子』 リチャード・ライト

 

1930年代のシカゴで、貧しい黒人青年ビッガー・トマスは、白人女性を誤って殺してしまう。発覚を恐れた彼は、遺体の首を斬り、暖房炉に押し込み、逃亡を謀る。
このあたりのあらすじは、読む前に知ったが、読み始めてみれば、これ以前のビッガーの暮しや、事情などが詳しくわかってきて、殺害から逃亡までのわずかな間に起こったいろいろなこと、殊にビッガーの心情の細かな変化に目を見張る。


アメリカの白人たちに囲まれて、黒人に生まれるということ、黒人として生きていくことの希望のなさに息がつまりそうになる。「まるで刑務所に暮らしているような」「隔離されたゲットーのような生活の場」という言葉、それが日常……。
それにしても、家族の中のビッガー、友人たちの間のビッガーの、チンピラぶりのどうしようもなさよ。自分の周りのすべてを憎み、怒り、大言を吐く癖に、ほんとうは臆病者の彼。それが思いもよらず人を殺してしまったことで、運命は変わってしまう。彼の気持ちの、いちばん衝撃的な変化は、解放感だ。
続けて、最初の犯行をごまかすための(より大きな解放感に向けての)次々の犯罪(計画も含めて)の卑劣さ、容赦なさは、彼の感じる自由とは裏腹に、ますます彼を狭い場所に追い込んでいくように思えるのに。
同情の余地のない主人公であるが、その行く末(電気椅子か、逃げ延びることか)を見届けなくては、と夢中になって読んでいたはずだった。


黒人であるビッガーの眼前に、陽光を浴びて広がり聳え立つ白い巨大な山のてっぺんから、小さな石ころがひとつ、彼の足元に落ちてきたところから、物語は違う様相を見せ始める。
間違いなく、この物語の主人公はビッガー、と思っていた。ところが、いつのまにか彼はある大きな流れの中の一滴に過ぎないのではないか、と感じ始める。


読みながら何度も立ち止まり、自分では見えていない「ヘイト」が私のなかで息づいているのではなないか、と考えた。
差別のない世界を!という無邪気な願いによる、悪意のない行動が、このうえない差別的なものであることに気づけないことがある、という絶望。
明解で単純な断罪よりも、叡智と人間への信頼の言葉のほうが、人を深い淵に押しやることもあるのだ、と知ることが衝撃だった。