『フォンターネ 山小屋の生活』 パオロ・コニェッティ

 

その頃、30歳の作家は一行も書くことができなくなっていた。虚無感に囚われた彼は、アルプス、モンテローザ山麓フォンターネの山小屋を借りて移り住む。孤独を求めて。
冬の終わりに住居のあるミラノを離れて、春夏秋を過ごした山の生活と思索の記録であるけれど、その日々には(思い切って言えば)特別なことは何もなかったんじゃないだろうか。
ただ、彼にとって山は、どこに住んだとしても、帰りたい場所だった。
そこで生まれたとか、長く住んでいたとかは、関係なくて、帰りたい、と思える場所が胸の内にあるということが(そして、帰ってきたことが)きっと何よりも特別なことだったのだ、と思う。


季節は早春。
始まりは、
「……とりあえず、セーターを着込んで火を熾すことにしよう」
これだけで、私は、この本が好きになってしまう。


彼は、薪を割り、嵐のなかで火を熾し、畑を耕し、種を蒔き、山菜を料理し……独りでいる術を身につけようとしていた。
本を読み、荒野を愛する詩人や作家たちの言葉に立ち止まりながら、思い出を辿り思索を重ねる。


印象に残るのは、山に登る途中で見かける廃屋のこと。
家は徐々に崩れ、最後に名前(どの家にも屋号がある)が剥がれ落ちるという。岩、くぼ地、草地の名前も消えていく。
そのとき、山は人間から解き放たれ、物に名前を与えるという人間固有の必然性からも解放されるのだという。
それは、都会を離れた作家自身の姿と重なる。
名前まで消えていくことは寂しい、と思っていたが、見方を変えれば、さばさばと開けた気もちになる。人や物の名前の中で暮らしていると、なかなかわからない感覚だと思った。


「僕は隠遁者としては完全に失格だった。独りになりたくて山で暮らす決心をしたはずなのに、一緒に過ごす相手をいつも探していた」
とはいえ、山でのつきあいは、街とはちがう。
山小屋の家主や牛飼いの男。ともに独りでいることに慣れている者同士の静かな訪問は、辞去するときの恒例の儀式のような言葉のやりとりまで愛おしい。
朴訥なはにかみ屋の山の男と著者とに、少し前に読んだ『帰れない山』の二人の男がすこしずつ混ざり合っている。
『帰れない山』の、もう一つのエピソードを読んでいるような気持ちになる。


野うさぎの足あとを見つけて跡をたどれば、自分の山小屋の前に至ったこと。
真夜中、焚火の近くにいる狐と、闇のなかでみつめあったこと。
著者の姿を目にして、群れを守ろうと立ち上がったアイベックスの老長のこと。
森の奥から聞こえるカモシカの鳴き声。
そして、岩の上に滑り落ちた著者が痛さにじっとしていたときには、獲物を狙う鷲が著者の上で、輪を描いて飛んでいたこと。
動物たちの気配は、自分がここで一人であることと、ちっとも一人ではないことと、両方を感じさせる。距離を置いた付き合いではあったけれど、ここにも友情(?)があったのだと思う。
後半には、牧畜犬になりそこなった、やんちゃなボーダーコリーが家族になる。
首輪もリードもなしで、好きなだけ山を駆けまわる暮らし、うちの犬が聞いたらさぞ羨ましがるだろう。


失意の時も含めて、どれもこれも名残惜しい日々。
作家は「何年も前の昨日の、雪が降り出す前に書くのをやめた」ノートを再び取り出す。
作家は山を降りる。(私は、待ってよ、もうちょっと聞かせてよ、と未練がましく思っている)