『カヨと私』 内澤旬子

 

カヨは雌の山羊だ。
著者が小豆島の海辺の家で山羊を飼い始めたのは、家の周りの雑草を食べてもらうためだが、寂しがって泣いてばかりいるカヨは、なかなかこちらの思うようにはいかなかった。


一章一章が絵日記のようなエッセイとスケッチで出来ている。絵の中のさまざまな表情の山羊たちの先には、見えないけれど、ちゃんと著者がいる。
カヨと著者の日々は、第一部と第二部に分けられていて、二つの部では、二人(?)の関係が大きく変わってくる。


第一部は、カヨと著者と二人。著者は、カヨの世話をし、カヨと散歩に行く。試行錯誤しながら、二人の生活を軌道に乗せていく。
綴る言葉は、カヨへの語りかけである。著者はカヨに、いろいろなことを語りかける。カヨは答えたり答えなかったり。そうこうしているうちに、自分とカヨの間の隔たりがなくなっていくようだ。
「私はもう半分くらいヤギなのだ。カヨだって半分くらいは人間なんだし」
「私たちは、動物に許されて、譲られて、勝手をしている。「使役」なんておこがましい」
ふたりでいるときに、不意に見せる山羊の表情や、思いがけない反応に驚かされ、その瞬間に出会えたことも尊いと思う。
著者は誰に語りかけているのかな。
カヨに。
カヨはどこにいるのかな。
著者の傍らに。それから著者自身のなかに。それとも著者がカヨのなかにいるのかな。
どっちでもいい、二人きりの時間が心地よい。
「ねえ、カヨ」という問いかけが心地よい。


第二部、カヨの子どもたちが増えて、いちばん多い時には七頭の山羊と一緒に暮らす著者はがぜん忙しい。
著者はこのチームの、いわば監督かプロデューサーみたいだ。
これまでのカヨと一対一の濃密な日々とは違って、カヨたち山羊一家を、外側からサポートするスタンスへと徐々に変わってきている。
カヨは堂々たるチーム(家族)のリーダーである。群れの面々(ほとんどがカヨの子どもたち)は、それぞれに性格も違うし、相性もちがう。
成長の仕方も違うし、その都度都度の(人への)要求も変わって来るみたい。
そして、ひっきりなしに、思いがけない事件が起こる。


人と山羊とが一緒に暮らすうちに、両者の境界がゆるくなったとしても、なくすことはできない。山羊にも山羊の都合があるだろうが、人も人の社会を捨て去ることはできないのだ。
「どんなに頑張ってみても人間が動物を飼う以上、齟齬をかならず抱えてしまう。それがときどきとても苦しく切ない」
それでも、時間をかけて築いてきたものもある。それを思うとき、人はやっぱり動物と暮らせたことをありがたく思う。動物も、少しは人と暮らせたことをうれしく思ってくれるといいな、と我が家の動物を撫ぜながら、私は思っている。