『トラや』 南木佳士

 

野良の仔猫トラが、一家にやってきたのは、医師であり作家である著者が鬱病に苦しんでいたときだった。
トラと関わりが深かったのは二人の子どもたちで、世話をしたのは妻だった。最初は、著者がそこまでトラにかまけているとは思えなかったけれど……


壮絶な、と言いたいような家族を巻き込んでの闘病生活を支え、昼夜を問わず眠ることのできない著者を束の間の眠りに誘ったのが小さな猫であったことは不思議なことである。(その後の病気の快復にも、この小さな猫の存在は大きかった。)
父が亡くなったときにも出なかった涙が、トラを埋葬するときには止めようもなく溢れたことも不思議なことである。
不思議なことであるが、同時に、
「トラがいなくなり、人だけが住むようになった家はひどく殺風景になった」という言葉を読みながら、やっぱり、不思議なことではなかったのだ、と思う。
人でないものと暮らすと、言葉にならないような思いがけないことに出あって、そのときどき不思議と思ったり、不思議と思うことをそのまま日常と受け入れたりするのだろう。


著者は、言葉が意味を持たないのを知りながら、トラに言葉で語りかける。(こういうことも本当は大きな不思議)
「中途半端に言葉でわかりあえていたつもりになっていて、じつは何もわかっていなかった人間関係もあったよな、とトラに語るたびに思い出す」
著者が、トラに語りかけたり、トラの様子を気遣ったりしながら、その向こうに見ているのは、いつでも、言葉でわかりあえたつもりで、本当はとてもわかりづらい人間たちである。


見送った祖母や父、伯母の思い出。忘れがたい自身の患者のこと。同僚や恩師たち。
そして、現在と思い出の中の自分自身。
生きのこったものと死んでしまったものの間を、トラがニャッと挨拶しながら行き来するようだ。


生きることと死ぬこと、存在と不在ということとの間には、どんな違いがあるだろう。
何度でも繰り返し巡ってくる朝昼晩、春夏秋冬、だけど、どれもみな違う朝昼晩、春夏秋冬。同じ時間なんて一つとしてないことなどを思う。


「いつのまにか一家統合の要になっていた」トラが亡くなったあとに、「永遠の不在は、遺された者のうちに不在というかたちで残る」
どうしようもなくさびしいけれど、不在まで手放すことはきっともっとさびしい。ゆっくりゆっくり。不在とともに暮らしていこう。