『アメリカの鱒釣り』 リチャード・ブローティガン

 

短い断章から断章が続く不思議な本。それぞれに別個のタイトルがついていて、共通するテーマが「アメリカの鱒釣り」なのだ。
アメリカの鱒釣り、って、ときどきは釣りそのものを指すけれど、ほとんどは人物(主に作者自身)をさす。
どの断章でも、本当に釣りをする場面はほとんど出てこない。(釣りの背景については、よく出てくる)


全体的な印象はシュールで、思いがけない場面でもっと思いがけない場面や思いがけない言葉に出会う。
小説(短編集)というよりも、詩集を読んでいるようでもある。


一章が極めて短いから、ぽつぽつ読んでいくのが楽しかった。
シュールだったりグロテスクだったりの場面は沢山出てくるのに、不思議なくらい悪意(恨みや嘲り)がなくて、代わりに感じるのは、もうちょっとで共感できるのにそこまでいくことのできない寂しさのようなもの。夏の夜のような清涼感。
思い出したくない苦い思い出のなかにさえ小さな光のようなものがあり、そのために、今この場面が特別のものになる、というような。


行ったことのない町で、良い感じのクリークをみつけた少年は、釣り道具なんか持っていなくて、代替品でそれらしいものを作って勇んで出かけるが、実際行きついてみれば……という『木を叩いて その2』


クリーヴランド建造物取り壊し会社』では、小川売り場で川が1フィート単位で切り売りされている。
細切れにすることも、切り売りすることもできないはずのものが、ごそっと積み上げられて、値段がつけられて、当たり前みたいに、さも無邪気なふうに描き出された売り場は、もしかしたら、ここだけの話ではないかも。


「……それができたら、外へ出て、その毛鉤を空に投げ上げる。すると毛鉤は雲の上を漂い流れ、それからきっと黄昏の星の中へ流れていくことだろう」の一文が印象的な『墓場の鱒釣り』


『ネルソン・オルグレン宛て<アメリカの鱒釣りちんちくりん>を送ること』に出てくる墓碑銘も印象に残る。
アメリカの鱒釣りちんちくりん
  洗い 二セント
  乾燥 十セント
  永遠に眠れ」


『二十世紀の市長』は、切り裂きジャックについての話。
「かれはアメリカの鱒釣りの扮装をしていた。肘を山々で覆い、シャツの衿にはあおかけすをつけていた……」


鱒釣りの目を通して、数々の場面やフレーズをこまごま重ね、並べていく。全体を、ちょっと離れて見たら、いつのまにか一つの大きな地図が出来上がっていた。