『目まいのする散歩』 武田泰淳

 

作者は、富士山麓の山小屋から、別荘地や森を散歩する。大病後で、ときどき起こるめまいを警戒しながら、休み休み、そろそろ歩く。
そのようにして始まった作者の散歩は、だんだん遠くへ行く。


時空を越えて、自身の若いときまで。「大正末期の少年たちにとって、家の中も外も危険が満ちている」というころまで遡る。


距離的な遠さでいうなら、海を越えてロシアへの旅までも散歩と呼ぶ。人との出会いや行く先々のアクシデントも含めての「散歩」だ。


妻・武田百合子さんの散歩について書かれた章が好きだ。『サスケ』(白土三平)の敵役の鬼姫に喩えて、大胆で伸びやかな歩きかたを茶化すように憧れるように語る。この文章、百合子さんの口述筆記によるのだよね。いいのか。(途中から、作者泰淳が「鬼姫」の傍らにさりげなくいるあたりがとても好き)


読者にとっては、まるまる軽いめまいを起こしそうなくらいに自由奔放な散歩、散歩、散歩。どの散歩も単独で完結するようで、じつは絡み合ったり繋がったりした、一続きの散歩なのだ。
人は生まれてから死ぬまで、ずっと散歩しているのかもしれない。たとえ止まっている時でも、何かしらの散歩している。たとえば読書だって、活字の上を目が行ったり来たり、これも散歩っていえるだろうし。


大病後の作品とは思えないほどの伸びやかな「散歩」は、一種の達観なのかもしれない。
人生が散歩、と思うなら、わたしの今このときも散歩の途上。ときに道に迷ったり、思いがけないところで躓いたりしても仕方がない。休み休み、思うままの歩調で、歩くことを楽しめたらいいな、と思う。