『おばあちゃんのにわ』ジョーダン・スコット/シドニー・スミス

 

おとうさんは「ぼく」を、毎朝、車でおばあちゃんの家におくっていく。
「ぼく」はおばあちゃんが用意してくれた朝ごはんを食べる。学校までの道は、おばあちゃんが送り迎えしてくれる。
おばあちゃんの家は、もとは鶏小屋だった。目の前にあるのは、硫黄工場の真っ黄色の硫黄の山だ。
さらりと書かれた、その環境だけでおばあちゃんのつましい暮し向きが想像できてしまう。実際、「ぼく」とおばあちゃんの日々も、金銭的な豊かさからは程遠い。
だけど、悲観めいたものはない。おばあちゃんとすごす時間の描写は、心こめるってこういうことか、と思うことばかり。たとえば、「ぼく」がこぼしたオートミールを、おばあちゃんが拾い上げて、そっと口づけしてから器に戻すというような。


言葉は少なくて、「ぼく」と「おばあちゃん」の間の会話は一つも書かれていない。互いのしぐさだけ。
何だか泣きそうな気持ちになる。


「ぼく」が、日々、おばあちゃんから手渡されていたのは、「むかし、とても長いあいだ、食べるものがなくてこまったことがあるらしい」おばあちゃんの人生そのものだったと思うのだ。
キスして器に戻されたオートミールの小さな一口も。
学校帰りの道をゆっくり歩くこと、ポケットの中のガラスびんも。
そして、食べきれないほどの野菜がある裏庭、林檎の木の横で、ふたりひざをついていたことも。
黙って手渡されていく人生を無言のキスとともに、小さな孫は、静かに受け取っていく。
受け取ったものは、孫の胸の内に生きて植物のように成長していく。それを確かめ合っているような、最後の二人が好きだ。


シドニー・スミスの、爽やかな光に濡れたような絵がとてもいい。
形だけでみれば、ちっとも写実的ではないその絵のなかの光の反射がリアル以上にリアルに、人の表情やしぐさにふりそそぐ。
絵の中の光が、気持のよい雨あがりのような読後感に導いている。


作者ジョーダン・スコットのあとがきに代わる「ぼくのババ(ポーランド語でおばあちゃん)」というエッセイもとてもよかった。絵本のおばあちゃんは、作者のババだった。