『蠅の乳しぼり」 ラフィク・シャミ

 

収録された13のお話の語り手はいつも「ぼく」
「ぼく」のまわりには、お話上手なおじいちゃんと、魔法使いのようなおばあちゃん。
働き者で「貧乏人が学校に行っても始まらん」というパン屋のおとうさん。
文字は読めないけれど、世界一聡明でやさしいおかあさん。
「ぼく」の親友は、七十歳になるサリムじいさんで、「ぼく」のことを一番わかってくれる人だ。
ラフィク・シャミの他の作品にも出てくるお馴染みさんたちだ。


この本に書かれた13のお話は、おとぎ話であっておとぎ話ではない。王さまや美しいお妃がでてくるお話も、近所の人たちや、あまり近づきになりたくないような役人が出てくるお話も。


故郷を離れてドイツに暮らす作者ラフィク・シャミの、帰れない故郷の町ダマスカスとは、帰れない少年時代と同義語でもあるように思う。町角も、寄ったり散ったりする少年たちの姿も、明るい光に照らされているように感じる。それは、郷愁の光であると同時に、現在ひたすらに子ども時代を過ごしている者たちへの眼差しの明るさ、温かさであると感じている。
全力で守りたい明るさであるから、そこに外から影を投げかけようとする(あるいはひと思いにバッサリと切り捨てようとする)手に対しては、静かで激しい怒りをあらわす。鋭い皮肉という武器を使って。
これは、そういう「ほんとうの、おとぎ話集」なのだ。


「ぼく」の友だちのユセフが5リラで売るつもりのニワトリを75リラで手放した話や、おとうさんが壊れたラジオの機嫌を取りながら修理する話など楽しい話もたくさんある。
だけど、サリムじいさんが話すプクラ王の話は怖い。貧民を率いて悪政の壁を叩き壊した騎士は民衆の歓呼のもとで王になる。国民に自由を約束する。何を話すことも(王の悪口さえも)今や自由だ。但し、ひとつだけ「トマトについて話してはいけない」という禁止事項があった。これのどこが恐いのか、だんだんわかってくるのである……。


最後のお話では、「ぼく」が兵役を逃れる方法をサリムじいさんに聞きに行く。
「パンの代わりに鞭を与え、学校の代わりに刑務所を建てるような国家のために、自分からすすんで死のうとする奴なんて馬鹿に決まっている」
誰だってそんな馬鹿になどなりたくないだろうに。
表題の不可思議な「蠅の乳しぼり」という言葉が出てきたのはお話の最後だった。