『愛国殺人』 アガサ・クリスティー

 

「歯医者に行ったときに自分を英雄だと思える人間もほとんどない」って、ポアロさん、あなたも歯医者は苦手だったのか、やっぱり。
だけど、椅子の上で手も足も出ない患者を前に、あんなにもくつろいで楽し気に、軽い世間話などしていた歯科医が、その日のうちに自殺してしまうなんてことは普通に考えられるだろうか。
ポアロが歯医者に行った日の午後、ジャップ主任警部から電話がかかってくる。歯科医モーリィが診察室で、拳銃自殺をしたというのだ。
自殺ではない、とポアロは考える。しかも、その日のモーリィの患者のうち、一人がその日のうちに亡くなり、一人が失踪(後に死体で発見される)
その日モーリィの診察室を訪れた患者の中に、銀行家で経済界の大立物であるアリステア・ブラントがいたことから、この事件はただの連続殺人事件とはいえなくなってくる。
ブラントを除くことが国のためだと考える過激な愛国組織の存在が浮上してきたのだ。


この事件は本当に、国をひっくり返す陰謀、そこから起きた連続殺人なのだろうか。
どこかから圧力がかかり、警察はこの件から手を引くことになった、とジャップはいう。ポアロ一人で何を相手にしようというのか。
どんなトリックが使われたとしても、うしろには大きな組織が控えているなら、犯人を特定して終わる話ではないはず。
大きな目的のためなら殺人さえ正義だと信じている組織が相手では、どんな結末に行きついても、すっきりとはしないだろう(そもそも行きつくような結末なんてあるのだろうか)
おまけに、読みながら掴んでおかなければならないのは、大勢の登場人物の複雑な関係、分刻みの時間の流れ、である。先が見えない込み入った迷路を歩くのは、気が滅入るものだ。


ところが、急転直下。「すっきりしないだろう」というこちらの予想はひっくり返るのである。
なんてことをしてくれたの!と言いながら拍手を送りたい結末が待っていた。
しかも、これで終わり、と油断していると、最後の最後まで……。驚いている探偵と読者を置いて、軽やかに歩き去るあの人に幸いあれ。