『にごりえ・たけくらべ』 樋口一葉

 

「……赤蜻蛉田圃に乱るれば横堀に鶉(うずら)なく頃も近づきぬ、朝夕の秋風身にしみ渡りて上清が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり……」
一葉の文章は、雅俗折衷体というのだそうだ。リズムがあり、ちょっと艶っぽくもあり、美しい。
二編の物語はどちらもやりきれない話ではあるが、リズムを意識して文章を読んでいくのは楽しかった。(本当は難しくて苦労した――読点で繋ぐ長い一文、それも主語がないことが多く、誰の話かすぐにはわからない)


夫の絶縁状(三行半)どころか「出ていけ」の一言で、妻の意志は関係なく離婚が成立する時代だった。追い出された女がひとりで食っていく道はあっただろうか。
にごりえ』の源三の妻お初は、職人の夫が落ちぶれて食うや食わずの暮しのうちでも、精一杯のやりくりをして、夫を立てて仕えている。
この貧乏暮しは、源三が仕事そっちのけで「菊乃井」の酌婦お力にいれあげたためである。
お力は気風が良くて、客に人気があるが、心は醒めている。貧しく惨めな少女時代を経てここにいる。他に稼げる場所があればこんなところで客を引いてはいないのに。
二つの全く逆の立場にいる女。だけど、ほんとうはよく似ている。似させられている。「これが一生か、一生がこれか、あゝ嫌だ嫌だ」


たけくらべ』では、遊び仲間とつまらないことで笑い転げ、ときには徒党を組んで喧嘩をしたり、の若者たち。幼い恋や憧れもあるが、まだまだ男でも女でもないものでいられるぎりぎりの年代なのだろう。
だけど、ここには吉原がある。
美登里はいずれ姉のような遊女になることが約束されている。
信如は寺の一人息子でいずれは僧侶になることが約束されている。
何もなければ、ささやかな初恋の一コマかと思うようなあれこれだけれど、互いが後ろに引いている背景のために、両岸に分けられてしまっている。
どちらの親も(寺だろうが花街だろうが)なんとも生臭い、濁り水のようだ。親たちと子の間にもくっきりとした境を感じるが、子が境を越えてこちらの側に来るのを親たちは待っている。
吉原を囲むお歯黒溝には黒い水が流れる。溝には跳ね橋が架かっている。ひとびとのあいだにも見えない溝と橋とが幾重にもかかっている。
子どもらはそれぞれの渡るべき橋を渡っていく、明るい側から暗い側へと。
最後の「水仙の作り花」は涼しく明るい。それだけに身のまわりの暗さが際立つ。