『大つごもり・十三夜 ほか五篇』 樋口一葉

 

『大つごもり』『ゆく雲』『十三夜』『うつせみ』『われから』『この子』『わかれ道』の七編が収録されている。


『大つごもり』は、たいそうなご身代ながら、世間から「吝(しば)きこと二とは下がらぬ」といわれる大店に、女中奉公にあがった働き者のお峰。病気で臥せった伯父を見舞った折、年を越すためになんとか二円、主人から借り受けられないかと泣かれて、嫌とはいえずに請け合ってしまう。
二円という金額は、大家には、端金であるにもかかわらず、主夫婦は肯んじない。
お峰は、けなげな働き者。善意の人だけれど、愚かだ、といったら酷だろうか。目先の情に流されていくばかりなのが、悲しくもあり歯がゆくもある。


『十三夜』は、夫との離縁を思いとどまるよう説得され、お関は実家から婚家に戻る。その途上、身を落として車夫となった嘗ての思い人、縁之助に再会する。縁之助の独白に心動かされながらも、辛い胸中を明かすことができない、一見幸福な大家の奥様のお関である。
夜道の暗さ、静かさ。ひときわ美しい十三夜の月が印象に残る。


『われから』の主人公お町とその母美尾。家を出された女と家を出ていった女。奇しくも逆の母子だが、ともに家に縛られている。
息がつまりそうな不快感が残るのは、女が一方的に惨めというよりも、この夫婦はもともと、利用するもの・されるものとしての共依存の関係で成り立っていたのだな、と思うからだ。


巻末の「解説(前田愛)」を読み、一編一編について、ああそういう風に読むのかと、さまざま外の事情と組み合わせつつ、一読では気がつかなかったことを教えられた。
荷風が路地裏の美学とエロチシズムの貪婪な観察者であったとすれば、一葉は、路地裏の世界にたくわえられた怨念を、明治社会の陽の当たる場所につきだすことを辞さなかった街の語り部であったといえるだろう」
という言葉をはじめとして、なるほどと思えることが多かった。
『われから』についての解説のうちに、「物語のいたるところに仕掛けられた一葉の『悪意』」という言葉をみつけたときは、はっとした。
悪意は、誰に向けられているのだろう。主人公たちひとりひとりを孤立させる世の中だろうか。それとも彼女たち自身にだろうか。もしかしたら、一葉の悪意は、作中人物たちを通して、一葉自身に向けられているのではないか、とも思う。