『木菟燈籠』小沼丹

 

木菟燈籠 (講談社文芸文庫)

木菟燈籠 (講談社文芸文庫)

 

 

1960年代ごろ発表された短編が十一編。
当時の風景、人々の様子、こんなふうだったかなあ。読んでいると、もうちょっと昔のような気がしてしまう。
そう思うのは、時々、物語の中にはさみ込まれる思い出話(戦中、戦後)が、(物語中の)現在と混ざりあっているように感じられるせいかもしれないし、そうした思い出が語られるのが時々「酒場」で、その「酒場」は、どちらかといえば、賑やかさとは遠い、ひなびた感じの店だからだろう。
庭木や家々の佇まいも、路地の小鳥屋の話なども、今のわたしには、むかしむかしの風情だ。
そう思って読んでいると、
「何でもこんな寝苦しい暑い夜のことを、熱帯夜というのだそうである」(「槿花」)などと書かれていて、あれ、と思う。
60年も前に、もう「熱帯夜」なんて言葉が使われていたのか。「むかしむかし」と今との思いがけない近さに気がついて、びっくりする。


11の短編の語り手たちは、自分にとっての忘れられない人のことを語っている。こまごまと語っている。真面目に語っている。
読んでいると、少し笑ってしまう。そんなことを気にして、真面目で不器用だなあと思って。
植木屋の親父が病気で来られない。ほかの植木屋に頼むのは気がひけるので、伸び放題の庭木に困りながら、二年も放置である。(「枯葉」)など。
そう度々会うわけではないけれど、独特の雰囲気を纏う知人がいる。会うたびに印象が変わって、やたら気になる人がいる。気にするから、余計に、不思議な人になる。中村さん(「ドビン嬢」)や、上松さん(「鳥打帽」)のこと。
いきつけの喫茶店や寿司屋、酒場、旅館の店主や従業員たちのこと。顔馴染みの客のこと。それから趣味の将棋がらみの人びと。
よく知っている人が、ときどき、ひょこっと知らない横顔を見せて、どきっとする。


この短編集には、たくさんの人の死が、あちこちにぽろりぽろりと書かれている。
親しい人や、忘れがたい知人、若い人までの、思いがけない訃報に接して驚く。「みんなみんないなくなった」などという詩句を思い出したり(「四十雀」)、「振り返ったが誰もいない」(「槿花」)とも書かれているけれど、後を引かない。潔いような諦めの気持ち、だろうか。変な狎れもない。
「判らないもんですね」「判らんもんだ」などと言いながら、酒など飲んで、
静かに親しい人の死を自分の心の内で、他の部分(生)に混ぜ合わせながら、ゆるゆると生きていく、というイメージだ。