『オオカミに冬なし』 クルト・リュートゲン

 

 

その年、アラスカの冬は早く来た。
北極海で漁をしていた七隻の捕鯨船は、アラスカ北端のバロー岬で氷に閉じ込められてしまった。
総勢275人の乗組員を助け出すために、大統領命令により政府のカッター「牡グマ」が向かう。
けれども、氷に阻まれて、ベーリング海峡にすら辿りつけない。
万事休す……というところで、立ち上がった初老の運転士ジャービスは、陸路、食料を届けることを提案する。途中、セントマイルス堡塁で、犬ぞりと、食料用のトナカイの群れを調達して。
厳寒のアラスカを陸路縦断して、北極圏の北端へ向かう旅は、狂気の沙汰と思われた。
ジャービスは一人で行こうとしていたが、同行を申し出たのが、人類学の研究のために乗船していた医師マッカレンだった。
二人は、大統領命令を手に、ブローウィン湾から、出発するのだ。


想像はしていたものの、困難な旅路である。次々に起こる不測の事態。
脅威はもちろん自然だけではない。
思いがけない厚い援助もあったが、裏切りもあった。


見聞きするのは、白人のエスキモーに対する差別やひどい騙し。
ことに、ずるい毛皮商人たちの物々交換によって、エスキモーたちにもたらされた安酒によるアルコール中毒。働く気力を奪われ、滅びてしまった集落の廃墟の描写が心に残っている。


読みながら巻頭の地図で現在地を確認する。ああ、こんな困難を乗り越えてきたというのに、まだこんなところにいたのか、と道の遠さに気が遠くなりそうだ。
長い夜に、ジャービスは、ときどき、自分が昔体験したことを、若い医師マッカレンに語って聞かせる。
数々の冒険、苦い思い出。後悔。そして、出会った人々。
これらの挿話を含めて、この物語全体が、実際にあった出来事(1893-1894)に基づいているのだ、ということに驚いてしまう。


命の選択、という言葉を聞くことがある。
この物語のなかでも、捨てる命、助ける命を選ばなければならない場面が何度か出てくる。
両方助けようとしたら、どちらも倒れてしまうだろう。助けようとした自分自身も。
マッカレン医師は苦しむのだ。
もし、ここに踏みとどまって、この命のためにできる限りのことをしても、この人たちは春までもたないだろう。
では、ここは眼をつぶって急いで先へ進むか。自分たちの助けを待って飢えている275人のもとへ。
そんなに簡単にわりきれるものではないのだ。
マッカレンは悩み、考える……


暗い、冷たい、広大な土地の上で、仲間以外、ほぼ人に出会うこともない原野で、ひとり自問することが増えてくる。
何を成し遂げ、何に負け、何を諦めたのか。その時、その先には、何もないのか。何かがあるのか。
一人一人の人間がより鮮明な浮彫になってくるようだ。
物語は、容赦ない。厳しい。だけど、それでも(それだから?)くっきりと立ち上がってくるのは人間への信頼、希望なのだ。
大切なのは、きっと、その、「それでも(それだから)」なのだね。
これはおもしろい冒険物語だけれど、ただの冒険物語というだけではない。
この本が子どもの物語として書かれたこと(受け取り手としてのこどもへの作者の信頼)にも、心動かされる。


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先日読んだ『岩波少年文庫のあゆみ 1950-2020』に載っていた「『オオカミに冬なし(上)』を読む」(梅棹忠夫)に出会ったことが、この本を手に取ったきっかけです。
物語の中のある会話文をとりあげて、
「……それは、何のために生きるかを教えるとともに、人生いかにバテるべきかを教えている。バテどころの哲学である」と語っています。この言葉のおかげで、この本を読みたいと思ったのでした。