『あした、弁当を作る。』 ひこ・田中

 

「いってきます」と玄関を出る子どもの背中に、いつものように母親が軽く手を触れたとき、子どもはゾクッとして、ゾクッとした自分に驚く。
「ゾクッ」が、子どもの親離れ、目覚めの第一歩ということが新鮮だった。いいや、新しいわけではない、忘れているだけ。いわれてみれば、それはこういうふうに突然くるものかもしれない、と振り返って思っている。


この物語の主人公・龍樹の両親は、押しも押されもせぬ毒親だ、と私は終始カリカリしながら読んでいたのだけれど、「ゾクッ」から思うに、かなりの親(もちろん私自身も)が、どこかに毒親要素を隠し持っているのではないか、無意識に子どもをコントロールしているのではないか(たいていの親は、上手に回避していくとしても)、と思い始めて、そしたら、別の「ゾクッ」を感じてしまった。


自分の弁当を自分でつくる。自分の衣類を自分で洗う。
行動が伴わない口先の反抗ばかりが思い出される私から見たら、龍樹の自立への道は、なんてまっとうで、清々しいのだろう。
あの手この手を使って、それを阻害する父という人、母という人。それぞれの本音がだんだん見えてくる。


龍樹は、考え深い子どもだ。
自分が父や母に感じる少しばかりの違和感にも、それはどこから、どうして、と考える。
親が、子どもの自立をこんなにも嫌がるのはなぜなのか。
丁寧に考えていくその過程のなんとスリリングで説得力のあることか。
見慣れた景色は、別の景色に変わっていく。それは、ミステリアスで不気味で、その実、あっぱれ気持ちがよい。


一方、この物語、親への警鐘のようにも思えてくる。
いろいろ理由はあるけれど、真正面から向き合うことを避けていた自分自身の問題を、もう一度、取り出してみる勇気を持ちたい。自分が逃げているせいで、どこかにシワが寄っているかもしれないから。
そうじゃないと、いつか、置いてきぼりにされる。
「ぼくたちは嫌でも大人になってしまうんだから、そんな大人にならなければいいだけだよ」
という子どもたちに。


「ぼくはぼくでいたいだけだ」という龍樹の願いはいたってシンプルだ。
まだまだ道は険しいけれど、龍樹の弁当が少しずつ進化していくそのぶんだけ、龍樹自身も、少しずつ道を先へ進んでいる。からめとろうとする網から逃げきる力をつけている。