スコットランドの田舎に暮らす五人の子どもたち(真ん中の「ぼく」は作者自身がモデル)の、遊びに遊んだ日々の物語を集めた作品集だ。
美しい風景の描写、少しの寂しさや苦味の混ざったユーモアは、後に書かれる『たのしい川辺』に繋がっているよう。
「ぼく」は、周囲の大人たちのことをこっそりオリンピアン(オリュンポスの神々)と呼んだ。子どもから見たら、大人たちは神々のように力をふるい、高みにいて理解しがたい行動をとるからだ。
子どもたちが大人の目にとまるのは、窮屈な服を着せられ、お行儀よくする、という苦行を強いられる時か、さもなければ、悪さ(ときに濡れ衣あり)がばれて、ベッド送りの罰を言い渡される時で、何にしても、災難だった。
そうでない時、オリンピアンたちは、子どもたちがどこで何をしていようとたいてい放っておいた。
子どもたちは、家の外では王様だった。円卓の騎士で、探検隊の隊長で、海賊と渡り合う船長で、詩人だった。
野原は、騎士が渡り合う戦場になり遠征の海になった。ライオンが潜む叢があり、木陰の道はローマに通じていた。
池の水面では虫たちがきらきら光りながら巨大な海獣になった。そして、池は突然海に変わる。
ある時は、妹のシャーロットが二体のお人形を切り株に座らせてお話を語って聞かせているのを隠れて見ている。
「ぼく」は、素直そうにお話を聞く人形が、実は腹黒い策略を巡らしているのをちゃんと気づいている。
眠れない夜には、こっそりベッドを抜け出して、どこかにしまい忘れたビスケットがないか探検にでかけた。
古机の秘密の引き出しから発見したものの話が私は好き。
時には、オリンピアンの誰かと思いがけず接触(?)することもある。その時々でセンセーショナルな喜劇になったり悲劇になったりするのだけれど、それもこれも互いに言葉が通じないことが原因なんじゃないかと思う。
子どもの世界の掟と大人の世界の掟との間には、確かにオリュンポス山ほどの高さの隔たりがあるのだなあ。
オリンピアンの側から見れば、子どもらが立ち去ったあとの結果だけが目の前に残されるわけだから、仰天するような悪事に見えてしまうのだけれど、時々それはなんて残念なことだろう、と思う。
目の前で、素晴らしい叙事詩が進行しているのを見逃しているかも知れないし、涙を振り飛ばして笑い転げるような喜劇も知らずにいるのかもしれない。少なくとも抒情的な美しさに満ち満ちた瞬間をいくつも見逃している。
しかし、子どもたちの王国にも、とうとう「学校」が姿を見せる。「ぼく」のすぐ上の兄エドワードが寄宿学校に行くことになり、家を離れるのだ。
子どもたちは去っていく汽車に手をふりながら、休暇に兄が帰ってくる日を待ちわびる。
けれども、
「たとえ帰ってきても元のエドワードではなく、何もかも以前と同じには二度と戻らないことに、ぼくは気づかなかったのです」
学校の門はオリュンポスの山の入口だろうか。大きくなる事、新しいステージに上る事の代償はなんて大きいのだろう。しかも、どんな代償を支払ったか本人は全く気が付いていないなんて。
「ぼく」も近い将来そこにいくことになるのだろう。
けれども、「ぼく」は大人になっても山の下で面白く暮らしていた時代を忘れたりはしない。そういう人が私たちに物語を語ってくれることはなんて嬉しいことだろう。