『新月の子どもたち』 斉藤倫

 

レインは、まだ子どもなのに、トロイガルトという国の監獄に囚われた死刑囚なのだ。
朝礼のたびに、「ぼくはレイン。ぼくはしぬ」という言葉を復唱する。ほかの死刑囚たち(みんな子ども)と同じように。
「死ぬ」と答えることが当たり前のこの場所で、ただひとり、「わたしはしなない」と答えた少女がいて、レインは、ふりかえる。
実は、これは小学五年生の平居令の夢なのだ。令はまるで物語の続きを読むように、トロイガルトの夢を何度も見る。やがて、夢の中のレインも、自分は令の夢なのだと、自覚し始める。
現実と夢とが、交互に語られる。
夢のなかの監獄と、現実の暮らしと、違うのは見かけだけで、案外よく似ているではないか。


現実の世界で、令は、声変わりが始まっている。
令のまわりにもいる、大人になりかけているが、急に変わっていく自分に簡単に馴染めない子。自分が何に戸惑っているのかさえ気がつかずにただ戸惑っている子。息苦しさが伝わってくる。
トロイガルトの囚人たちは、現実の世界の令の友人たちのようだが、名前も姿も違うので、だれがだれなのか簡単にはわからない。
現実の世界での思いや悩みは、夢の中での冒険の別のかたちみたいだ。「しなない」で「外に出る」って、どういうことなのだろう。


夢のなかでも現実の世界でも、たくさんの比喩が現れる。やさしく書かれているけれど、そのふところはかなり深い。
内と外。夢と現実。死と生。相反する二つの言葉はほんとうにべつべつのものなのか。
夢は願望のあらわれである、というが、そもそもトロイガルト(子どもたちが死刑囚である国)って何なのだろう。
簡単に答えがみつかるものもみつからないものもある。答えは一つではないのかもしれないし。


「じぶんの夢を、まもれるのは、じぶんしかいない」
という言葉が、物語のなかを一緒に歩いてきたあの子たちから、これからその道を進もうとしている子どもたちに向けられた贐のよう。