『アイダホ』 エミリー・ラスコヴィッチ

 

六歳の娘が母親ジェニーの手に掛って死んだ。それを見てしまったもう一人の娘はその場から失踪し、戻らない。
アイダホの山に暮らす、ふつうに睦まじい四人家族だった。一家上げての薪作りの最中の出来事だった。
ジェニーは終身刑となって服役、夫のウエイドは音楽教師のアンと再婚する。


長い時間が流れている。事件の前にも後にも。こんな出来事が将来に待っているとは誰も知らないでいた過去も、事件のあとのそれぞれの(一見)静かな日々も、すべては、あの事件の瞬間のつづきだ。
断片的に語られる家族たちやその周りの人々の物語をつなぎ合わせながら、読んでいく。


若年性認知症のために、最初の結婚も娘たちのことも忘れていくウエイド。
あの事件を何度も思い返し、考え続ける妻のアン。
徐々に消えていく記憶と、何度も蘇り更新されていく記憶とが、波のようだ。どちらの記憶の波にも攫われまいとするかのように、二人、静かで深い愛情にしがみついているように見える。もしかしたら、しがみつくことが、別の側からの贖罪でもあるのかもしれない。悲しくて美しくて、そして、なんとなく怖くなってしまう。


服役中のジェニーが出会った囚人エリザベス。エリザベスと同囚シルヴィアとのあいだにあったことが心に残る。彼女たちふたりが、ジェニーの二人の娘たちの、事件前の日々に重なる。
他愛のない言葉、感情、だけど、ときどき、どきっとさせられる。(どちらも、大人なのか子どもなのかわからなくなる)
エリザベスとシルヴィアの「その後の出来事」は、形は違うものの、ジェニーの事件によく似ているように思う。刑務所という箱庭のなかでの再現みたい。


起こった事実をどんなふうに再現できたとしても、当事者だけにしかみえないもの、理解できないものがある。
形だけ見れば、そんなことは(私には)ありえない、ときっぱり言い切れるはずのいろいろなことに、自信をもてなくなっていく。確かだと思っていたものが、そうとはいえないと思えてくる恐ろしさ。「わたし」や「あなた」が、いくつもの見えない粒々になって風に乗って流れていくようなイメージ。


静かな物語、取り返しのつかない哀しみの物語。美しく厳しい環境で、迷わされていく。
長い長い時間をかけて、いったいどこに辿り着こうとしているのだろう。
たぶん、許しでもなく償いでもなく共感でもなく……
「わたしがここにいるのはあなたがここにいないから」という言葉が出てきたけれど、それは、一面(真逆に見えるが)こういうことでもあるのだ。
「わたしがここにいるのはあなたがここにいるから」
穏やかに(ほとんど明るい気持ちで)物語を振り返りながら。