『あいたくてききたくて旅に出る』 小野和子

 

五十年になるそうだ……。著者は、仙台を本拠地にして、あちこちの集落をまわって、民話を聞き集めている。
「むがすむがす、あったとやぁ」とお話は始まる。
だけど、ひょっこり現れた見ず知らずのひとが、突然「お話を聞かせて欲しい」と言って、「はいそうですか」となるはずもなく、なんの収穫もなく帰ることが多かった。
けれども、玄関先、あるいは開け広げた縁側や、田畑の縁に立ったままで交わした言葉が、実は、民話以上のお話(民話の芽)になり、そのままの語り言葉で載っているのが、むしろ心に残った。
または、話者がその民話を聞いた背景がそのまま、物語になり、それが民話に厚みや深みを与え、そのままだったら、あやうく即忘れられそうな物語を、忘れがたいものに変えていったことも、心に残る。
語りつたえられる民話は、語る人の人生を反映して、同じルーツを持つ物語であっても、重点を置かれる箇所が変わり、別の物語のように思えることもある。聞き手の受け取り方によっても、おそらく変わってくる。


印象に残る語り手は、まず「みはる」さん。お母さんから聞かされた民話をあつめて『冬の夜ばなし 宮城・県北の昔話』という本を出された。満州からの引き揚げの途上、お母さんを喪った。遺骨は叶わないまでもせめて死亡地の土を墓石の下に埋めてやりたい、と願っていたが、かなわなかった。この本は、
「幼い時母が語ってくれた昔話を、たとえ一つなりとも世の中に出すことが出来れば、母の魂も浮かばれるのではないか」との思いで編まれたのだった。


夫も子も亡くし、親戚の世話になりながらつましく暮らしている「ヤチヨ」さんに、著者が最後に会った時の言葉。
「子もないし、家もない。いい着物一枚持っているわけでもない。おれ、死んでも何も残らないなあと思っていたが、あんたが家に来て、おれの昔話を一生懸命に聞いて書いてくれたのがうれしい」


病気の親に夜な夜な起こされ、患部をさすり続けた子どももいた。眠がる子どもを寝かせないためか、いたわるためか、親は昔話を語り続けた。
また、
冬の「綿かけ」仕事をしながら、「おふくろ」は、子どもたちをそばに呼んで、「むがし」を語った、という「郁」さん。「自分の寝むけ覚ましに、〈むがし〉語ったのしゃ。手を動かし動かし語ったのしゃ」


兵隊になた息子が、南方で亡くなった時間に、親たちのもとに会いにきた話をしてくれた人がいた。奉公先で心通わせた馬の話をしてくれた人もいた。
民話に変わった、子のない夫婦の「山」の話も語られる。
坂上田村麻呂のエゾ征伐について、「エゾ」と呼ばれた側からの物語(ほとんど残っていなかった)も語られる。


民話っていったい何なのだろう、語るということは、聞くということは、本当はいったいどういうことなのだろう。
「民話は生きもののようだと思うことがある。
ときに貝のように固く蓋を閉ざして、聞き手であるわたしの理解を拒絶するかと思うと、反対に、ぐいと引き寄せて、隠れている淵を深々と見せて驚かす」