おとうさんは著者が中学の時に亡くなる。
著者が高校一年生の頃、お母さんは病気で(九死に一生を得たもの)車椅子の生活になってしまった。(お母さんは二年もの間、リハビリ兼ねて入院する)
四歳下の弟はダウン症だ。
十代の子がひとりで背負うにはあまりに過酷な境遇ではないか、と思う。その後も、著者が負ってきたもの、越えていかなければならなかったもの、ここに書かれていないことがたくさんたくさんあるにちがいない。
だけど、この本の趣旨は、そういうことではない。
家族(亡くなったお父さんも含めて)について書く言葉は、温かい、というのとはちょっと違う。素敵におかしくて、笑いに笑う。
ダウン症の弟は、家族(はもちろん多くの人)に助けられている。だけど、同時に、彼が(受け取る助けとは違う方法で)どれほどに人びとを助けていることか。
ことに、どん底だった著者を掬い上げ、元気を取り戻させるためにした、彼の助けが、心に残るのだ。それを文章にしたためる著者の言葉が、一見軽口ふうで、実はとても大切なことを伝えてくれていることに打たれる。
明るかったおかあさんは、下半身の自由を奪われても、子どもたちにはいつでも優しかった。でも、本当は、生きていくことに絶望していた。「死にたい」と著者の前で、ぽろりと口に出したとき、著者は「死んでもいいよ」と受ける。死なせたいわけないのに。そして、その続きがある。……いま、おかあさんは、心理セラピストとして働き、手動装置を使って手だけで車を運転する免許を取得し、何処にでも出かけて行く。
著者の波乱万丈といってもいい、伸びやかな半生の物語を読みながら、いつだって、家族(亡くなったお父さん含む)の存在を感じていた。それぞれに障害をおっていたり、いてほしいときに亡くなっていたりしたとして、それがなんなのだろう。それはまったく「負」ではないどころか、対等の持ちつ持たれつの関係……いや、そんな言葉も、どうでもいいのだ。
ただ、相手に対する絶大な信頼がある、この家族には。障害者も健常者もなく、それぞれにできること(得意なこと?)もあれば、さっぱりできないこともある。そういう凸凹を愛おしみながら暮らしている感じが、とてもいい。なんだか元気になれるような気がする。
「人を大切にできるのは、人から大切にされた人だけやねんな」
お母さんの言葉だった。
一方で、ちらりほらりとあらわれる、障害のある人が出かける町、出会う人々のこと、住宅(賃貸)事情などについて、考えていかなければならないことはたくさんなのだ。
半分あきらめかける著者たち家族の前に現れる頼もしい人たちもいる。「難しいんじゃないかな」を、迷うことなく突き破って必要な助けを、カッコよく提示してくれるその道のプロたちの姿に、心動かされながら、いろいろな人たちとともにこの町で暮らす一人として、自分ができること(すべきではないことも含む)を探していけたら、と思う。互いに大切にされたい仲間として。