『ギュレギュレ』 斉藤洋

 

自称トルコ人の不思議な商人から、「ぼく」が最初に買ったものは、空飛ぶ足ふきマットだった。へんてこな理屈に煙に巻かれるように入手した足ふきマットがただのマットではないことに気がついたのはトルコ人が帰ってから。
そのときから、トルコ人はときどき、ぼくのところに、いろいろと不思議なものを売りにやってくるようになる。
東京湾に浮かぶ透明な島、小さな電気雲、魔女が出てくる不思議な掛け時計……。
どれも、そんな品物があるなら見てみたいし、欲しくなるのもわかるわかる。


どの品物も、ただ不思議なだけではなくて、ちょっとかわいい。
たとえば、足ふきマットには名前があり、空をとぶためには、トルコ語であいさつして、名前を呼んで、お願いしなければならない。そんなふうにしていたら、それが貴重品だから、というよりも、相棒として愛情持って大切にしたくなる。
玄関マットが、玄関ではなくて、テーブルの上に置かれているのは、そういうわけなのだろう。
ほかの品物も、おおかたそんな感じ。


不思議な品々は、便利な道具なのだ。
それなのに、「ぼく」は、大して役だてているように見えない。
そんな使い方なら、他の(たぶんあなたがすでにもっている)ありふれた道具でも用が足りるよね、と思うようなつきあい方しか「ぼく」はしていない。
これだけの道具がそろえば、大きな冒険ができるはず。ほかの人が成し得ないような何か特別な仕事だってできるだろうに。
だけど、そうしないことは残念なことなのだろうか。
「お客様はしっかりとえらばないと」とトルコ人の商人は言う。
そして、選ばれたお客が「ぼく」
ここにいる品物たちは、使い勝手のよい道具にしてはいけないのだ、きっと。
見た目と能力とが、びっくりするほど違う品々は、さらに思っている以上の存在なのだ。「ぼく」はそれがわかる人なのだろう。ちょっと力が抜けた、野心なんかあまりないような、そんな持ち主と物との暮らしはちょっと素敵じゃないか。
持ち主も、品物たちも、ともにいて、そこそこ幸せそうだ。


ともあれ、トルコ人が「ギュナイドゥン(おはよう)」と現れるたび、今度はどんな品物がやってきたのかな、とわくわくする。