『テーブルの上のファーブル』

 

机上の空論ならぬテーブルの上の寓話(fable
ページ中央の大きなテーブルの上はきれいに空っぽ。
そこにある日、どっさり横浜みやげの品々が広げられる。洋書やレコード、それから崎陽軒のシウマイ。
テーブルをなかにして、クラフト・エヴィング商會のお二人が、色違いの活字で会話している。
ページを追うごとに、参加する人が増えたり、風の噂になって入れ替わったり、それに伴うように、テーブルの上には、品物が増えていく。
見方によっては、意味の分からないガラクタで終わってしまうかもしれないモノたち。それなのに、ひときわ怪し気に見えるのは、これらが、寓話になる前の(すでになりかけている)伏線だからだ。
テーブルの上に広げられた伏線と、テーブルの上で回収される伏線。
モノが「寓話」に変わるのをわたしは見ているのだ。


一癖も二癖もありそうなモノたち。
二つ並んだ(中身がまるまる入った)インスタントコーヒーの瓶が特別なのは、なぜか。
テーブルの隅に乗ったお馴染みの崎陽軒のシウマイの箱は、だけど、ほんとにこんな箱だっただろうか。
ひとつひとつ桐箱に収められた形も大きさも違う電球はみんな線が切れている。
皿にのったハンバーガー二つ、幾本もの使いかけのえんぴつ(長さばらばら)に、懐かしいピース缶一個……。
何の変哲もない、おなじみの品々に見えるけれど、油断はできない。使い込んだ古さまでも添えた、精巧な創作品であるかもしれない。


時々くすっと笑ってしまうけれど、この笑いにはどこにも意地悪な笑いがないのもうれしい。


テーブルの上がそのまま伏線のカタログみたいで、伏線だけ並べても、この読み応え。ずっとこの調子でページをめくり続けるのもいいと思っていたけれど。
広げられた伏線の回収方法は一通りではない。なんというか、縦横斜めに回収されて、回収されたかと思えば、それがまた新たな伏線に変わっていくこともある。
さらに言えば……実は、この本全体が、たぶん、未来に対する伏線でもあるのだ。というのは、私はいま、この本(2004年発行)の19年先の未来にいて、すでに「伏線の回収」本たちに、そうとも知らずに出会っていたということ。そういうことだったんですよね?