『名もなき人たちのテーブル』 マイケル・オンダーチェ 

名もなき人たちのテーブル

名もなき人たちのテーブル


11歳のマイケルが、セイロンの家族(親戚)のもとから、大型客船オロンセイ号に乗せられ、イギリスの母の元に送り出される。
21日間の船旅である。
原題は『キャット・テーブル』で、その意味は、船の食堂で「船長が客をもてなす貴賓席からはるかに離れた」「もっとも優遇されない『下座』のこと」だそうだ。
このテーブルの面々をはじめとして、船の中で、のびのびと知己や友人(大人子ども関係なく)を作っていくマイケル。
一人旅の少年は、キャットテーブルには三人いたのだ。マイケル。それからカシウスにラマディン。
たちまち意気投合した三人の少年たちは、ここぞとばかりに悪ガキぶりを発揮する。
大人の手を離れた子ども「だけ」の開放感に酔う。そして、一日一悪の無邪気で大胆な冒険に快哉を叫びたくなる。
彼らにこれほど惹かれるのは、結ばれつつ、三人が三人ともひとりっきりの侵しがたい領域を持っていること。
それは、底抜けの解放感の底にある、近づく未来への決して忘れることのできない不安と、(おそらく二度と戻ることのない)故郷への郷愁にもよるのだろう。
旅の目的も家族のことも、互いに知っているようないないような、の宙ぶらりんのまま。暗黙の約束のように聞かない、語らない。
大海に囲まれた船の上、という狭く閉じられた世界は、宙ぶらりんな不安な心(否応なしに大人になっていくしかない11歳の心)を繋ぎ止め守る、期間限定の砦のようにも思えた。


いろいろなことがあった旅だったけれど、その旅の終わりに、ある事件が起こる。
事件は一つの盛り上がりではあった。でも、物語がここに向かって進んでいた、とは思いたくない。
事件をきっかけに、「ああ、あのときの…」と気が付くことも多々ある。でもそれは、この事件のために張られた伏線、と言ってしまいたくないのだ。
むしろ逆。
それまでに起こった小さな出来事と、そこに携わった人々のその時々の感情、横顔が(何もなくても忘れられないのだけれど)この事件をきっかけに、ひときわ鮮やかによみがえる。人々の表情がよりいっそう深みを増していくような気がする。
そして、船上で見た、いくつもの瞬間瞬間の光景が、忘れがたい輝きに包まれる。
起こったことの意味も、顛末も、そして真相(?)さえも、どうでもいいのだ。それは問題ではないのだ。


少年は無理やりに大人になったのだという。この21日間に。
それは少年たちだけだっただろうか。大人の姿をした人々もやはり、この旅で、別の大人になったのかもしれない。
だけど、その「無理やり」はなんて静かなんだろう。
狭くて濃い21日間だったけれど、その後に控えている人生の慌ただしさに比べたら、このひと時の日々は、何もかもが、小さな光のようだ。
ダニエルズさんの植物園、マザッパさんのピアノ、フォンセカさんの部屋の居心地のよさ、日々聞こえるきしむバイオリンの音、ミス・ラケスティの本、いとこのエミリー・・・
「影」で栄えるような人間たちも、動物も。
静かなその横顔が、読み終えた今も懐かしい。寂しさが集まって和やかに食事をするかのようなテーブルがほのぼのと明るい。
この旅は忘れられない。それぞれが(すべてを語り合うことはないそれぞれの理由で)何度も反芻するだろう。
寂しさも不安も、みじめさも、時には残酷ささえ、船に乗せられ、大洋から守られていた。守られた束の間だったのだと思う。
そうして、わたしも、あのとき、マイケルたちといっしょに、船を降りたんだ・・・彼らと別れるのが寂しくて仕方がないよ・・・