『ほうかご探偵隊』(再読) 倉知淳

 

ほうかご探偵隊 (創元推理文庫)

ほうかご探偵隊 (創元推理文庫)

 

講談社ミステリーランド~かつて子どもだったあなたと少年少女のための~」というミステリー叢書の一冊だった『ほうかご探偵隊』を、わたしが読んだのは、8年前だ。(感想は<a href="https://www.honzuki.jp/book/18392/review/45318/">こちら</a>)
久々の再読は創元推理文庫版で。
うれしいことに、こちらには、作者による「文庫版あとがき」がついていて、単行本のほうにあった「あとがき」のつづきのようになっているのだ。
単行本のあとがきは「わたしが子どもだったころ」というタイトルで、作者が小学生の頃、江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズを夢中で読んでいた事、本と同時に、漫画やアニメ、特撮番組が好きだったことなどが書かれていたが、
こちら、文庫版あとがきでは、中学生以降のこと(本~ミステリ遍歴のこと)が書かれている。
単行本刊行から文庫本刊行までに十数年。その間に、解説も、こどもから大人になったみたいで、おもしろい。


しばらくぶりの再読で、ほとんど物語を忘れてしまっているくせに、ところどころ残っている記憶がくっついたり変容したりして、犯人だと思っていた人は違っていたし、あそこのからくりはこういうことだったはずだ、という確信もあちこち間違っていた。
あれこれの混乱を正しながら進む、楽しい再読の旅だった。
(物語を忘れても、この本を楽しんで読んだ気持ちは忘れていない。)


5年3組の教室で、不要物連続消失事件(次々に不用品が消える)が起こる。
それがなくなっても、大抵、誰も困らないのだけれど、続くとさすがに気持ちが悪い。そこで、龍之介君を中心に、四人のクラスメイトが、探偵活動を開始する。


読み始めた当初、「不用品」というコトバに抵抗を感じた。
どの「不用品」も一時は、だれかの大切なものだったり、夢中で手をかけてきたものだったはずなのに、それを、「なくなっても誰もこまらない」だなんて、そんな風にあっさり言ってしまっていいのだろうか。
でも、読み進めると、不用品はやっぱり大切なものだったと思えてきてね、あの人この人の言葉の端々に、だよねぇーと、相槌打っている……なんて言っているから、私はいつまでたっても片付けが苦手なのだろうな。


子どもたちが探偵だったのは四日間。
いろいろなものを見て回り、いろいろな人に話を聞いて、額付き合わせて相談して、事件が解決してもしなくてもとっても楽しかった。
高時君が言う。「事件の可能性をみんなであれこれ話し合うのが、こんなに楽しいとは、思ってもみなかったよ」
うんうん、わたしも、あなたたちの後ろをついて歩きながら、そう思っていたよ。


四日目の放課後、「つまりね、これから解決編が始まるのさ」と龍之介君が言う。
ここから始まる解決編に、踊らされる、踊らされる。
再読のわたしが、犯人像を間違って記憶していた理由がわかった! うふふふふ。


「ぼく」こと高時くんは、夢なんてそうそう叶うものではないと醒めたことを言っているが、そういいながら、やっぱり、大人になったらやりたいことがある。
龍之介くんには、憧れている「親戚のおじさん」がいて、いつかああいう風になれたらいいなと思っている。
そして、単行本のほうに載っていた作者のあとがき「わたしが子どもだったころ」の結びの言葉を思い出すのだ。
「人生は、何がどうなってどう転ぶか、本人にすら判らない。
 だから面白いのですけどね。」
まるで遠い未来の本人(のわけはないのだけれど)から子どもの時代への茶目っ気たっぷりの手紙のようだ。
こちらの本にも、文庫版あとがきのほかに、単公本のあとがきも収録されていたらよかったのになあと、ちょっとないものねだりをしたくなる。

  

再)ほとんど物語を忘れてしまい、曖昧な記憶がくっついたり変容したりして、犯人だと思っていた人は違っていたし、こういうことだったはずだ、という確信もあちこち間違っていた。あれこれの混乱を正しながら進む楽しい再読の旅だった。読み終えた時、不用品はやっぱり不用じゃないやと思えてうれしかった。