『はるかな国の兄弟』 アストリッド・リンドグレーン (河合隼雄『ファンタジーを読む』を読みながら)

はるかな国の兄弟 (リンドグレーン作品集 (18))

はるかな国の兄弟 (リンドグレーン作品集 (18))


訳者あとがきに書かれているように、リンドグレーンの作品には、
『ピッピ』や『やかまし村』のように「小さい主人公たちの日々を、明るく、あたたかく描きあげているもの」もあり、
名探偵カッレくん』のように、「現代少年少女がぶつかるできごとや、その冒険などをあざやかに語っている」ものがある一方で、
「こういう作品とはまたべつに、たいそう美しく空想にあふれ、時には憂いを湛えて、心をゆするようなお話や物語」が、ある。


それ、なんです・・・。
この本『はるかな国の兄弟』は、『ミオよ、わたしのミオ』などとともに随分昔に読んだのですが、子どもが死後幸福になる物語。わたしはそういうふうに受け取ったのでした。
『ピッピ』や『カッレくん』と同じ作者が描いたとは思えないくらいに戸惑いました。
『赤い鳥の国へ』(感想)を読んだときにも同じことを感じました。(もう9年くらい前の感想ですが・・・)
その後、ずっとずっと・・・折に触れ考えていた。
リンドグレーンの作品にある輝かしい命の賛歌のような作品とともに、これらの美しすぎる死の物語があるのはどういうことなのだろう・・・と。
しばらく前に、いつも楽しみに拝読している書評ブログ『おいしい本箱book cafe』に、リンドグレーン『わたしたちの島で』について書かれていて、そこで、
「(作者は)この輝かしい物語の一番奥に、「死」というものをきちんと描いている」
「幼い心は、大人が思う以上に「死」について敏感だ」
リンドグレーンは、その奥深くに眠る不安と喜びに、魂と言い換えてもいいかもしれない深い場所に語りかける術を持っている」
という言葉に出会ったのでした。
リンドグレーンは、生と死―真逆のものを真逆に向かって讃えた二つの世界をなぜもっているのだろう。とずっと考えていた私には、とても大きな驚きだったのです。
真逆ではない。生の中に死があった・・・まさに目からうろこ、だった。
そして、教えてもらったのが、河合隼雄さんの『ファンタジーを読む』という本。この本の中で『はるかな国の兄弟』がとりあげられていることを知ったのでした。
『ファンタジーを読む』の『はるかな国の兄弟』の章を読むにあたって、改めて、この本を再読したのでした。


・・・というわけで、ほぼ40年ぶり(!)に再読しました。『はるかな国の兄弟』
病気のため大人になる前に死んでしまったカール(クッキー)は、自分を火事から救うために少し早くに死んだ兄ヨナタンと別天地ナンギヤラで再会する。
すっかり丈夫になったカールは、ヨナタンとともに、馬に乗り、ナンギヤラを支配しようとしている暴君に立ち向かう。
河合隼雄さんの本を頼りに読めば、この本における現世は、本当は生まれる前の前世であり、ナンギヤラこそがほんとうの現世、ということになる。
ナンギヤラは、決して理想郷ではなかったし、弱い人間も残酷な人間もいたわけだし。喜びもあったけれど恐ろしい死もあった。
一度死んだ二人は、冒険の末、次の死を迎え、今度はナンギリマに行くのだ・・・


リンドグレーンの書く「死」はなんなのだろう。
わたしはやっぱりわからないのだ・・・
ナンギヤラで力いっぱい生き切ったカール、あるいはナンギヤラに来る前に、病気と闘い続けたカール。
リンドグレーンの描く死は、「逃げ」ではない。
この世での冒険を終わらせることは誰が決めるのだろうか。次の世界への招待状を渡す、目に見えない絶対的な存在があるような気がする。
ナンギリマへ飛ぼうとするカールとヨナタン。ナンギリマの存在はヨナタンがカールに教えた。ではヨナタンはどうして知ったのだろう。
また、『赤い鳥の国へ』の二人の兄弟の前には、開けて入って閉めることのできる扉が用意されていた。その扉は誰が用意したのだろう。
死ぬ決意、死ぬ時期・・・自分で選んでいるように見えるけれど、そうではないのではないか。
だって、リンドグレーンの描く子どもたちは、生き切ったではないか。精一杯やったではないか。
明確に描かれてはいないけれど、このまま、命が尽きるかもしれないぎりぎりのところで、大きな手が彼らの魂を掬い取ってくれたのではないか。
次の生の場所へ、さらによく生きられる相応しい場所へ。
勇敢であった人間たちには、死はきっと全否定にはならないのだろう。
(『ファンタジーを読む』の第一章には、「実際、人は「二つの世界」に属しているのだが、どうしても一つの世界しか見えない人が多すぎる」という言葉がある。)
生のなかに死を認めるように、死のなかにも生を認める。難しいけれど、そういうことか。
死と生とを共に受け入れることによって(その意味を知ることのできるものはきっと限られている。私は本当はわかっていない)、さらにより良く生きられる、そういうことがあるのかもしれない。
そういうことなのかな・・・


河合隼雄さんの『ファンタジーを読む』の序章には、「ファンタジーは空想への逃避ではない」という言葉が書かれていた。
「逃避どころか、現実への挑戦を意味するのだ」と。
また、「妖精の国は危険なところです。不注意な者には落とし穴が、無鉄砲な者には地下牢が待ちうけています」というトールキンの言葉を引き、
「ファンタジーは危険なものである」と書かれている。
これらの言葉を、わたしは『はるかな国の兄弟』を読みながら思い出す。
『はるかな国の兄弟』のなかの「死」は・・・「逃避」ではない、と同時に、受け取り方によっては「危険なもの」なのではないか。
だから、いつまでも終わりはない。私はいつまでも気になって仕方がないのだ。
『はるかな国の兄弟』も『ミオよ、わたしのミオ』も、『赤い鳥の国へ』も・・・。