『すべての雑貨』 三品輝起

 

西荻窪で雑貨店『FALLS』を経営する著者のエッセイだから、雑貨の魅力について余すところなく語るのであろう、と想像しながら、この本を手に取ったけれど、そうではなくて……


雑貨、という言葉からどんなものを連想するだろう。
ホームセンターの棚にあるせっけん箱も雑貨なら、作家の一点もののオブジェも雑貨。
守備範囲はなんて広いのだろう。
昔は、雑貨って今よりずっと狭くて身近でチープだったと思う。


「世界がじわじわと雑貨化している」という。
今までは雑貨とは呼ばれなかったものが、雑貨として扱われたりすることもあるという。
たとえば拾ってきた石ころまでも雑貨だ、と言い張れば雑貨になってしまう……こともある。
決して「雑貨」にはなりえないだろうと思う洋服や本が雑貨になり、いつか、例えば車さえ「雑貨」になってしまうかもしれない、と。


雑貨は、わりと簡単に飽きられる。ついてくる価値観や物語も信じ切る前に流されて、目移りしていく。
「……つねに半分飽きて、つねに半分信じているような浮遊した感覚」だという。
そして、「これこそが市場におけるわれわれの、あるいは雑貨という存在の重さであり軽さではないだろうか」と、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を引きながら、語るのだ。
クンデラが出てきたけれど、雑貨の話の間には、たくさんの文芸作品が紹介されていて、読みたい本が増える。)


雑貨って何?
この本を読むと、それがわからなくなってしまう。
道具でもなく、芸術でもなく、そのすきまをふらふらする宙ぶらりんなもの。
雑貨という言葉の境界が曖昧なのだ。
折り紙の「だまし船」を思い出す。
見た目は「帆掛け船」なのだけれど、指で「帆」をつまんでいるつもりでいたのに、目を瞑っている間に、自分がつまんでいる所が「舳先」に変わっていた、という「だまし船」。
得体の知れない雑貨、道具のように重宝に用いられず、芸術のような年月を越えた高尚さもなく、あるときは深く愛されたのに、いつのまにか忘れられてしまう雑貨。


雑貨の輝きはわびしいのかもしれない。
最後のエッセイ『落葉』で、過去の旅の中で感じたいくつものむなしさが、影法師になって、ときどき著者の前に顔を出す、という。
「(そのむなしさは)古い友人に再会したときのような安堵感のなかで、生きることを素直に肯定してくれる気がした」
物言わぬ雑貨たちの存在が、この言葉に重なるように感じた。