『モノから学びます』 イム・ジーナ

 

文章と絵とで語るイム・ジーナさんのモノとの暮らし。
私たちは、大きいのから小さいのまで、数えきれないくらいたくさんのモノに囲まれて暮らしている。
はさみやリモコン、いざってときの鎮痛剤まで。
モノを手に取るときにジーナさんは思い出す。
たとえば、包丁なら、その置き場所について祖母が教えてくれたこと。しゃもじなら、ごはんをよそうときに祖父が言った言葉。
モノは、懐かしい人の思い出を運んできてくれる。
自分の暮らしの中にある、好きなモノや好きではないモノを手に取るとき、そのモノにまつわる物語も一緒に手にとっている。
どんなモノにも、それぞれの物語があったよね。
モノの物語を思うと、きっと少し元気になる。


たとえば、洗濯物の話。
一緒に宿泊したホテルで、先に帰ることになった連れが出発前に、ジーナさんの衣類を洗濯して乾かしておいてくれたそうだ。畳まれた洗濯物が封筒のように見えて、手紙をもらったようでうれしかったという。


コースター。
旅先には、必ず普段使いのコースターを持っていくそうだ。特別な日と普通の日の境界をあいまいにするために。


傘。
ジーナさんが入院したとき、先に病室に着いたお父さんが、ベッドのフレームに愛用の傘をかけておいてくれたこと。傘が「ようこそ」といっているようだったそうだ。


実体のない匂いや音も「モノ」だ。
知らない町に引っ越したとき、覚えのある料理の匂いや、お店で聞きなれた音などに出会うとほっとする。それは、「ふせんをはる」ようなものだという。ジーナさんは町を歩きながら、見えないふせんを貼っていく。一日一日、だんだん付箋がふえていく……


のんびりと暮らしを楽しんでいるように見えるが、ときには、何日も引きこもって外に出られないときもあるそうだ。
愛犬との散歩のときに、人の目に身構えてしまうことも。道行く人に心無い言葉を浴びせられたことがあるから。
いつだって穏やかに、機嫌よくなんていられるわけがない。
だから、身の回りに、いつでも自分の味方になってくれるモノがいてくれると心強いよね。


ジーナさんの「おしゃべり」に相槌を打つような気持ちでわたしもぐるっと自分のまわりを見まわしてみる。
机の上の老眼鏡や、ボールペン。畳まずに椅子の上に放り出したままの上着まで、自分の物語を語り出しそう。そう思うと、なんだか愛おしくなってくるじゃないの。