『優雅なのかどうか、わからない』 松家仁之

 

岡田匡は、離婚して、住み慣れたマンションを離れた。
あらたな一人暮らしには、ほぼ望み通りの家が見つかった。
自然林が残された公園が近くにあること、改装可能な古い一軒家であること。


家は、古く使いづらいながらも、捨てがたい風情があり、暮らし悪ささえも趣がある。
その家を少しずつ長い時間(それこそ何年も)をかけて、こつこつと改築していこうとする。
匡のなかにある家のイメージが、少し前に読んだ『火山のふもとで』に出てきた「質実で、時代に左右されない美しさを持つ使い勝手のよい建物」に重なり、物語の中のいまの家も、近い将来の家も、それはそれは居心地がよいのだ。
そして、この家の夕飯は、凝りに凝った、というよりも、さりげなく普通で(でもきっと無駄のない美しさで調理されたことだろう)この家のテーブルには、そういう食事が似合う。
この本を読んでいると、自分の生活の中に、何か清々しいものを探したくなり、今から床を磨きたいなあ、と急に思う。障子も張り替えたいなあ。(思うだけ)


そうではあるけれど、この物語は、ひたひたと居心地のよさに浸らせてはくれない。
「岡田くんは優雅だなあ」と言われる主人公、傍から見れば、ほんとにそうだ、と思う。
高給取りで一人暮らしで、そして……恋人までいるのだから。
だけど、この優雅は、曲者だ。


半野猫が、前の住人(家主)のころから、この家の敷地にいついている。
主人公匡は、この猫に食事と夜の宿を提供する。大切に慈しんでいる。
であるのに、傍観者めいた中途半端さ。当事者としての責任を取らずに済んでいるのだ。
……こういうことは、猫だけではなくて、彼が大切にしている人間関係のあちらにもこちらにもいえる。
そういう身軽さをまとった「優雅」なのだ。


ある登場人物が、映画の感想として、こんなふうに言う場面がある。
「あんなに優雅な、隙のない暮らしのなかに女性が入ってゆくのって難しいのよ。雑音というか、自分が異物になっちゃうんじゃないかって」
匡の暮らしも、そういう独り完結の「優雅」なのだ。


昼間は、雑木林の向こうから遠く子どもの歓声が聞こえる。
静まった夜には、アオバズクが鳴く。


人生後半、いろいろあった後のひとり暮らしならそれでいい。でも、それだけですむのか。
物語のラストは、この後の物語を期待させる。
これから吹く風や、これから見る窓の景色を思い描く。
雑木林を透かして子どもの歓声を聞くような余韻、と思う。