『バベットの晩餐会』 イサク・ディーネセン

 

バベットの晩餐会』と『エーレンガート』の二作が収録されている。


バベットの晩餐会
ノルウェーの小さな町の小さな家に、二人の独身の姉妹が極めて質素に暮らしていた。元教区牧師の娘で敬虔なクリスチャンだった。
この家の家政婦バベットは、14年前、パリ・コミューン鎮圧に際し、命からがらパリを脱出し、姉妹のところに逃れてきたのだった。
「料理ができる」という触れ込みの彼女は、以来、寡黙に姉妹に仕え、極めて質素な食卓を長いあいだ整えてきた。
バベットは毎年フランスの富籤を買っていたが、とうとう一万フランを引き当てた。
彼女はいよいよこの家を出ていくのだろう、と思っている姉妹に、バベットは言う。今年の信者たちを招いての晩餐(いつも変わらぬ質素な食事に、特別にコーヒーがつく)だが、今年だけは、本式のフランス料理を出させてほしい、その費用もすべて、自分に負担させてほしい、という……
晩餐会がどのようなものであったか、バベットにとってどういう意味があったのか……
芸術への畏れのようなものが沸き起こってくるが、それと同時に、芸術を目からも耳からも舌からも味わう事ができるのは、いったいどういう類の人であるか、と思うと、身を引き裂かれるような矛盾を感じずにはいられない。

『エーレンガート』
ある公国で、次代を担う王子夫妻のことで、いささか世間を憚る出来事が起こった。
母である大公妃は、お抱えの画家(にして名うてのドンファン)カゾックの知恵を借りて、内密のうちに、椿事を慶事に紛れ込ませる算段をする。
ところが、カゾックはカゾックで、この椿事の裏で、かねて目をつけていた娘の操を奪う作戦を立てていたのだ……
この知恵者の狡猾さ、残酷さに、はらはらする。精巧なクモの糸が、慎重に、正確に、乙女のまわりに掛けられていくのを、見守るばかりである。


二作とも、素晴らしい瞬間に出会った。
思いもかけないような宝を胸の内に眠らせている、類まれな人がいる。
解き放つべき場所が与えられれば、燦然と輝く宝であるのに、それができない身の上の、あるいは、宝の価値を知らない人たちの中で埋もれていくしかないことは、なんという鬱屈、残酷なことか。

物語、というより、おとぎ話に近いかもしれない。そして、こういう物語が必要な人が、時が、あるのだ。
そのとき、その人には、この物語も宝になる。時々、そっと開けて、そこにあることを確かめたい宝になる。