スコーレNO.4

スコーレNo.4

スコーレNo.4


そう。麻子はこの家で、この家族の中で大きくなったんだね。
麻子は、言うのだ。
「他の家は知らない」
「でもたぶん、暗黙の了解のようなものはどの家にもあって…」と。
そうだよねえ、結局自分の家しか知らない。
そして、望む望まないではなくて、そこで自分の根っこは作られたんだ。否定しようがない。
すっかり離れたよ、忘れたよ、と思ったころ、自分のなかの意外な場所でそれは覚えていて、意外な場所で目を覚ます不思議。
一瞬くらっとする。
子どもたちは遅かれ早かれ家を出る。遠く遠く歩いていく、後ろを振り向かないで。
だけど、地球は丸いのだ(笑)
遠くへ歩いていくほど、離れたはずのもの、忘れたはずのものに近づいているのかもしれない。


骨董店を営む麻子の家。
麻子は物心つくまえから父の店が好きだった。ずうっと好きだった。
その「好き」が、のびのびと、そしてとても繊細に描写されていて、
骨董を解らない私でも、この「好き」の気持ち、「好き」の中で呼吸する気持ち、わかる、覚えがある、と思う。
そうか、わたしの知っている心地良さを、こういうふうに描写するのか、そうか、麻子は、この気持ちを「骨董」と父の店とに感じているのか、
そういうふうに思った。
この肌に沁みこむような「好き」の雰囲気が、好きだ。


「そうだな、麻子の考えてるとおりだよ」
麻子が中学生のころの、父との会話。麻子の問いかけに対して、父はこう言った。それ以上のことは何も言わないのに、麻子は納得する。
その「〜の考えてるとおりだよ」が、この本の中にずっと流れているように感じた。
物語は麻子の一人語り。
麻子は大勢の家族、親戚、友人や恋人と出会い、別れ、成長していく。
その一人ひとりの印象は麻子の言葉で語られる。それ以上の言葉はない。
でも、ちゃんとわかるのだ。麻子の言葉以上の言葉で、時には麻子の感じていることは微妙に違うかもしれない、と感じながら…
周りの人が見えてくるのだ。
私の見えた通りの人だろうか、その人たち。答えは書かれていない。
ただ、麻子の父の言葉が別の声になってどこかから聞こえてくるのだ「あなたの考えてるとおりだよ」


麻子も周りの人たちも…普通の人、のようで、やっぱり特別な人。どこにも似た人はいない。それでいて、誰かに似ているような気がする。
わたしは麻子のようではない。この本に出てきただれかのようでもない。だけど、麻子の言葉ひとつひとつが、こんなに響く。「わかる」ような気がする。
どうして、「分かる」と思うのだろう。
上手く言えない。それは、麻子が自分の父の店を好きだと言った「好き」を感じたような、漠然とした印象で伝わってくる。
ほんとは漠然となんてしていない。一つ一つの場面の一つ一つの「感じ」や「考え」が丁寧に言葉にされている。
それが、なぜか明瞭な形ではなくて、すうっと肌から吸収されていくような何か形のない温度のない、何か何か、うーん、「何か」になってしまう。
この感覚がとても心地良いのだ。


たとえば、穏やかな表情の高校時代の友人たちの雰囲気を描写する文章はこうです。

>中心線からよろこびに十歩、悲しみに五歩、苛立ちや不安には三、四歩ずつの範囲だけ、感情を表すことに決めているようだった。
それから、自分にぴったりした靴をみつけた場面、
>あ。あ。あ。歩くたびに声が出そうだった(長いから以下略^^)
こういうこと、言葉にならない感覚を、見事に、それも独特の言葉にして、「そうそう、それ、その感じ」と頷かせてくれて、
それでいて、「定義」とかにはならない。どんな言葉にも、何かの余裕があるのだ。そこに、読者としてのわたしのため息の混ざる余地が遺してある、というような・・・
上手く言えない。そういう言葉にならない部分が心地よい。


しかも、この物語は、きりっとしている。姿勢がピンと伸びた感じの美しさがある。
麻子が職場で掃除をしながら、幼い頃の祖母の教えを思い出しつつ
「居場所をきれいに整えることは、居心地を良くしてその場所を味方につけるようなものだ」という。
それかもしれない、その居心地の良さ。
わたしがこの本を読んで感じるのも、それに似ている。
この本は居心地がよい。この居心地の良さは、私の味方になってくれている。そう感じるのだ。