『雨降る森の犬』馳星周

 

 

信州蓼科高原の一画に、山岳写真家の道夫は愛犬バーニーズ・マウンテン・ドッグのワルテルとともに住んでいる。彼のもとに、中学二年生になる姪、雨音がやってきて一緒に暮らしはじめる。
隣の別荘には、連休や夏休みなどにやってくる一家の一人息子、高校三年生の正樹がいて、道夫を本当の父のように慕っていた。
どちらも寂しい子どもで、親との間に問題を抱えて傷ついている者同士だった。
「だれからも傷つけられることなくひっそりと生きていたいだけだ」ここにきたばかりの頃の雨音の言葉だった。


「動物が幸せなのは、今を生きているからだ。不幸な人間が多いのは、過去と未来に囚われて生きているからだ」
道夫の言葉だ。
犬のワルテルと過ごすとき、そこには本当に過去も未来もない。ただ、互いがいる今だけがある。


三人と一匹が過ごす雨の日の針葉樹の森。鬱蒼と生い茂った針葉樹のおかげで雨に打たれることはない。濡れた緑の匂いがしてきそうな美しい場所。
三人と一匹で登った蓼科山。初めての登山、はじめての山頂から臨むパノラマを若者たちとともに胸に吸い込む。
この本はとても気持ちがいい。


三人と一匹は疑似家族のようだ。家族、というよりも動物的に言えば群れだろうか。道夫をリーダーにして。
居心地のよい群れだ。この暮らしがずっと続いたらいいなあ、と読んでいる私も思う。
だけど、数年後には自分はここにはいないことを雨音は知っている。
変わらないものなんて何もない。でもそれは先の事。
もしかしたら、過去も未来もない「今」だけがあるこの群れは、シェルターのようなものかもしれない。
傷ついた人間たちが逃げ込める場所。
やがて立ち向かわなければならない世界へいずれ出ていくために人知れず力を蓄える場所。


「人が動物と暮らすのは、別れの悲しみより一緒にいる喜びの方がずっと大きいからじゃないのかな」
という言葉に頷きながら、森の中を犬がかけてくる足音を聞いている。シャワーのようなその音を。