『わが庭の寓話』 ジョルジュ・デュアメル/尾崎喜八

 

詩人デュアメルの庭の、樹木、草花のこと、実りのこと、天気や庭の外のこと、それから、園丁のことや犬や猫、家禽のこと、虫や野鳥を始めとするさまざまな訪問者・侵入者のことなどが語られる。


わずか1ページか多くて2ページほどの小品には、一編一編に、訳者でもある詩人尾崎喜八のコラム(?)がついていて、この本は、作者と訳者との間でリレーする書簡のようだ。
カバーに描かれた絵の、鉢植えを見せあう二人(きっと著者と訳者)の会話を私はたぶん脇できいていたのだ。


たとえば、
『無心の庭』では、まもなく豪雨がやってくるはずの庭で、草花の上に園丁が重たい如雨露で「理性的な雨」を撒いている様子がつづられる。そのようにして園丁は庭を守っている。
対して、訳者は書く。いつ暴れ出しても不思議ではない持病の事を考えて、「私の体という『無心の庭』」を守っている日々のことを。


また、『若い病人』では、一羽の鵞鳥が禽舎のなかで仲間たちからあまりに酷い攻撃をされ続けているのを見かねて、その一羽だけ外に出してやる。安んじて静養するようにと。ところが、仲間から離された鵞鳥は……。
訳者がこの件について思い出すのは、長年辞めたいと思っていた仕事をやっとやめた知人のその後の話。


『流寓の苦しみ』では、庭に移植された、気位の高い薔薇たちが、主人に「あすこに見えるあの丘をみんなが余り好かないのです」と不満をもらす。
続く訳者のコラムで、「住めば都だ」と諭しているのがおかしい。


『場所の選定』、うるさい夏の羽虫たちは、おとなしくしているときは感嘆符(!)の形。だけど、毎日、辞書のなかで発見するのは「幻想的な句読点で意地悪く飾っている」姿。
訳者は、そこまで羽虫に悩まされることのない自分の暮しをふりかえり、農薬のせいか、開発、土地改良のせいか、と考える。


『ジャム』、庭から収穫した果実で作るジャムについて、作者はこういう。「匂いのために自分たちのジャムを作るんです。匂い以外のものなんか問題にはしていません」
なんと豊かな暮らしだろう。


こうして次々に読んでいると、作者・訳者の庭にいるのは植物や動物、昆虫たちだけではないだろう、と思えてくる。
きっと私たちの目に見えない妖精のような、不思議な存在が宿っている。