『アミナ』 賀淑芳

 

他民族・多言語の国マレーシアで、中国語で書く文学(作者・賀淑芳のように)を、馬華文学というのだそうだ。
訳者あとがきの、マレーシア特有の法や慣習など、丁寧な解説にはとても助けられた。きちんと理解できたかどうか。


11篇の作品を読みながら「よそ者」ということを意識する。
多民族多言語の国家、ということは、宗教、風俗風習など、それぞれの民族に固有のものがあり、それは、誰もが誰かにとっての「よそ者」ということなのだ、と思う。
読みながら、これは偏見だよね、差別だよね、人権侵害だよね、と思うけれど、その中身といったら、こんなに多種多様だ、ということに驚いてしまう。


『側面は鏡のように』では、主人公の「弁解したくないわけではないが」という但し書き付きの沈黙が心に残る。ある出来事をどう見ようとするか、によって、いくつもの事実(どれも事実)が生まれるのだ、と感じる。その事実の数だけ、当事者でありながら「よそ者」になってしまうこともあるのだ。


『壁』誰かを何かから守るため、外と内との間に壁が作られる。壁ができることはよいことであっただろうに、それまでは気がつかなかったもの(いやなもの)が、くっきりと見えるようになってしまう。


『男の子のように黒い』自分より下に誰かを置いて、私はあの人たちとは違う、あの人たちよりましなのだ、と。そうやって自分を保っている、ある集落での出来事。


『小さな町の三日月』は、奇妙なよそ者を観察していた自分自身が、ほかならぬよそ者だ。


もっとも心に残ったのは、表題作『アミナ』だった。
マレーシアの法なのだそうだ。華人家庭で育った少女は、父がイスラームに改宗したため、自動的に彼女もムスリムとなり、非ムスリムの恋人と強制的に離される。抵抗する彼女は、矯正施設に収容される。
従順になったふりさえもできない(するつもりはない)彼女の激しい拒絶が、他の作品の主人公たちの気持ちと繋がっていくようだ。


ときどきシュールで、どういう意味?と問いたくなる(答えを知りたいわけではない、怖くて)、後味が良いとは言えない物語たちだから、独特の余韻がある。
自ら進んで「よそ者」となるものも、だれかを「よそ者」と思うものも、本当は同じ根っこをもっているのだろう。そのように区別することを強いる大きな力があるのだ。
マレーシア特有、と思って読んでいたあれもこれも、決して特別なことではないのだ、と思えてくる。